エバーグリーン(豊島ミホ、双葉文庫)

エバーグリーン』(著:豊島ミホ双葉文庫)を読んだ。
アヤコ(女の子)のための物語という印象が大きい。
少女漫画、小説的とでも言うのだろうか。
中学三年生のシンは、学校祭を目前に組んでいたバンドが解散してしまう。
その話をたまたま聞いていたアヤコは、彼に一人でもステージに立つように言う。
実は彼女は以前から彼のことを気にしていて、でも本当は彼に話しかけるようなつもりはなく、ただ傍から見ていられればいいと思っていた。
結局シンは学祭のステージにひとりで立ち、彼らはたまに一緒に下校するようになる。
しかしアヤコの描いているというマンガをめぐって気まずくなり、卒業式まで話をすることはなくなった。
卒業式の日、シンとアヤコはそれぞれミュージシャン・漫画家になって十年後の同じ日に、一緒になんども通ったあぜ道で会うことを約束する。
そして時間が経ち、その約束の日が近づいていた。
アヤコは都会で少女漫画家になっていたが、シンはミュージシャンをあきらめ隣町のリネンの会社に務めていた。

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シンとアヤコの視点で交互に描かれ、なおかつシンの視点から物語は始まる。
にもかかわらず、アヤコのための物語だ。
二人の関係ははじめから対称では無かった。
アヤコのシンへの想いは、少女漫画的だ。
まわりが注目している人気のある男の子ではなく、自分だけが気がついているような特別なキラキラした男の子。
遠くからみているだけでもいいと思っていたその男の子に、成り行きで話しかけてしまい、一緒に帰るようになる。
後から振り返れば、恋に恋するような想いだったのかもしれないが、しかしそれを冷静にさせる機会を、彼女は持てないままになってしまう。
自分が描いたシンをモデルにしたマンガを見せられない、とムキになってしまい、卒業まで半年口を聞かず、高校も別々。
いわゆる地味系女の子のアヤコにとって、その「シン君」というキラキラしたものを、相対化するタイミングが無いまま、十年後に会うという約束を大切に十年間を過ごしてきた。
彼女の見ている世界は、たぶん中学生の時の少女漫画的な世界のままだった。
それは例えば男性関係だったり、彼女が描くマンガの純情さというところに表れている。
少女漫画的「思い出」「約束」を原動力にし、少女漫画的世界を生きている彼女は、しかしその破綻の予感を確かに感じていた。。
マンガの担当者の「ぶっちゃけ好きだったらヤリたい」という言葉への動揺や、風邪をひいても誰にも頼れないような寂しさ、約束に現れるシンが変わってしまっているという夢。
「現実」の「少女漫画的」なものに対する揺さぶりは、もはやかつての「思い出」「約束」だけでは支えきれなくなった世界に、しかし救世主として現れる王子・伊地知は、見た目そのままに彼女を受け止める。
彼女を変えるような出会いではなく、受け止めてくれる出会い。
それはそれまで彼女を支えていた「少女漫画的」な世界を変えること無く、しかし原動力ながら束縛としても機能した「思い出」「約束」から彼女を開放する。
一方でシンはどうだったのか。
彼にとってのアヤコは、特別な存在ではあった。
しかしそこに、アヤコがシンに対して抱いていたほどの必死さは見当たらない。
大人になった彼が振り返ったように、彼はある意味で彼女を、その年齢的な自信をもって見下していたのかもしれない。
見下していた、というよりは、特別な(ミュージシャンになる自分の)ファンとして彼女を見ていたのではないだろうか。
だから彼の約束への思いは、やはりアヤコに比べて必死さがない。
アヤコが約束を現実としていたのに対して、その必死さがない。
彼らの約束時点の結果に対して、その約束に対する姿勢を指摘することができるかもしれない。
一つのことを大切にしようと必死になったアヤコは夢をかなえ、対して重要だと思っていなかったシンは自分が言った「クソ田舎で一生埋もれて暮ら」すことになった、と。
しかしそれはあまりにもシンに酷な見方だ。
彼はミュージシャンになることはできなかったし、自分がかつて否定した生き方を選択せざるをえない。
だが、それが本来現実とされるものであって、アヤコの成功はむしろ例外なのだ。
僕たちがそうは思いにくいのは、これが最初に書いた通りアヤコの物語だからだ。
「思い出」「約束」の束縛から抜け出せた彼女にとってのシンは、『すげー』必要はない。
『違うからこそ、本物」の「シン君」でよかったのだと思う。
シンが十年間、その最後の数カ月を除いてその約束をそれほど重要に思っていなかった。
逆に、新しい世界を手に入れた彼女にとって、「約束」は確かに必要ではあるしゴールではあっても、必死さはもはやそれほどない。
最後の数カ月にシンが必死で埋め合わせようとしたことも、それが自分の現実に対するいらだちとともにあったことも、それはアヤコにとっては特別必要ではなかった。
シンにとって、現状への諦めに似た肯定であったとしても。
最後のシーンで、周りの景色に対する評価が、「天国」(シン)に対して「『青い鳥』に出てくる、子どもが生まれる前の世界」なのは、ゴールをゴールと捉えるシンと、新たなスタートとするアヤコの今後に対する展望の違いではないだろうか。
シンが悲観的かといえば、そうではないだろう。
結婚を考える彼女がいて、家族ともいい関係が築けている。
昔の仲間も近くにいて、会社の上司も悪くはない。
ただ、それはいじわるな見方をすれば、その条件はアヤコが安心できる条件なのではないだろうか。
ひとりだけ幸せになるということではなく、相手もそれなりに幸せになっているという事実。
アヤコの物語として読むと、シンに与えられた役割は悲しいように思える。
しかしそれをどう評価するか、どう見るかは読み手にかなり委ねられているのではないだろうか。

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