僕は友達が少ない 3(平坂読、MF文庫J)

僕は友達が少ない③』(著:平坂読MF文庫J)を読んだ。
今巻は夏休みの風景。
普通に部室に集まったり、プールに行ってみたり、星奈の別荘で合宿したり、祭りに行ったり。
テンプレなマンガ的夏休み。
他にも、前巻からの続きで、小鷹と小鳩が星奈の家に挨拶にいく話もあって、なんていうか相変わらずリア充してんな、けっという感じがする。
しかしこの手の作品の主人公の鈍さというのは一体何を象徴しているんだろうか。
この手の、と言っても、あまりラノベを読んでいるわけではないので偉そうなことは言えないけど、少なくとも目にする作品の主人公の鈍さは伊達じゃない。
まあ代表はハルヒキョンだけど。
以前どなたかのブログ(たぶん個人の方のブログ)で、アニメのらき☆すたの演出、修学旅行の時のかがみが呼び出しの手紙を受け取ってその場所に少し期待しながら行ったこととかに対して、それは作り手からのメッセージとして、現実もそれなりにいいんじゃないかというようなことがあるんじゃないか、と書いていたような気がするんだけど、
(追記4/20:こちらの記事でした→『アニメ版「らき☆すた」論 柊かがみは繁殖を望んでいる』(湘南自転車。さん))
それと同じように、男性主人公の少し不自然なほどの鈍さは、実は君たち(おたく)が気がついていないだけで、結構現実にだっていろいろ楽しいことはあるんだよっていうメッセージのようなモノが内容な気がしないでもない。
もちろん、それがツンデレ少女だったり、あるいは影からこっそり自分を眺めている少女だったりはしないだろうけど、学園モノとか空気系・日常系作品のブームって、結局そういうところにあるんだと思う。
らき☆すたのチョココロネのくだりに代表されるような、ほんとうにどこでも起こりうるどうでもいい場面も、見方や少しの音楽で、トクベツなエピソードになるかもしれない可能性があって、それに気がついてもいいんじゃないの?っていうメッセージ。
なんかそんなふうに思いながら読んだ。

あと、あくまで友達をつくるという名目のもとに、友達じゃない関係として一緒にすごすということに、可能性の切り捨てに対する不安があるような気がする。
友達だったらこんなことするけど、私たちはあくまで友達ではない、という了解は、その微妙なズレによって、友達であればすることをしつつ、しかしそうではないことをするということで、テンプレートな学校生活・青春を避けている。
ともだちがいると言う状態を普通としながら、しかし決してそれを受け入れないという行動によって、「普通」以外の可能性を常にキープしているんじゃないかと。
もちろん個々のキャラクターレベルでみれば、過去のトラウマとかあるんだろうけれど、作品全体としては非常に欲張りな欲求だと思う。
ハルヒがトクベツなモノを求めて少し変わった部活動をしていたのに対して、普通を求めて変わったことをするというのは、なんていうか面白い。

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本格的に幸村がかわいくて、なにか道を踏み外しそうでこわいw
やべーな、わぁいとか買っちゃいそうだ