『ネムルバカ』(石川数正、リュウコミックス)

ネタバレ有り

 『ネムルバカ』の主人公は二人の女子大学生である。彼女たちは同じ寮の同室に住み、生活を共にしている。一年先輩である鯨井ルカはバンド活動を行なっており、後輩の入巣柚実には特別打ち込んでいるものはない。
 そんな二人と周囲の人々がおりなすバイト、恋愛、二日酔いなどの日常的なエピソードには思わずクスリとしてしまう。愛すべき馬鹿馬鹿しさ、くだらなさがそこにはある。けれどもその端々にどこか、今と地続きの「将来」が見え隠れするのは、彼女たちが「大学生」であるからではないだろうか。
 マンガやアニメでイヤというほど描かれる高校生のキャラクターたちには、引き続き大学時代というモラトリアムへの移行を予感することが出来る。しかし大学の先にあるのはほとんどが「就職」という「現実」だ。少なくとも現代の日本では、大学生というモラトリアムのあとには「社会=現実」を否が応でも見なくてはならない。そうしなければ生きていけない(ということになっている)。
 モラトリアムは夢を見られる期間であり、その夢は現実からの逃避であると言えるかもしれない。ここで言う夢には二つの意味がある。一つは「社会=現実」に目覚める前のものが見ている世界という意味で、もう一つは叶えたいもの(=目票)としてのそれだ。もちろん現実を見据えて学生時代から人脈を作ったり資格をとったりという活動を選択することもできる。しかしそのほとんどは、やはり「現実」に向かっているようで、実際には「何かしなくてはいけない」という「現実」からのプレッシャーから目を背ける行為なのではないだろうか。具体的な目的に対する資格ではなく、汎用性の高い資格をとりあえず取るように。
 「社会=現実」が実際どんなものであるのかなど、「社会」に出た所で大してわかりはしないだろう。けれどその圧倒的な大きさだけは、個人では抗いようのない力だけは想像ができてしまう。いい情報も悪い情報も身の回りに溢れ、その数の多さも「社会」の巨大さに対する想像力の一つの要因になっている。無数の情報は透明さよりも、むしろ不透明さを増大させている(取捨選択が上手くできるならば、透明度は高まるのだろうけれど)。
 『やりたいことがある人とやりたいことがない人の間に』『何かしたいけど何が出来るのか分からない人ってカテゴリーがあって』『8割方そこに属してると思うんだがね』(p.137)というのはあるキャラクターの台詞だ。(彼は「やりたいことがある人」であるルカにぶん殴られる。)
 モラトリアムに『何かしたいけど何が出来るのか分からない人ってカテゴリー』に属する人の夢(=目票=やりたいこと)は、具体性のない儚いもので、結局それが結実することなんてほとんどない。むしろそれが彼らの夢(=目的)の条件である。具体化すればするだけ夢は現実に接近してしまうからだ。あくまで彼らの見たい夢は入れ子構造の夢、夢の中の夢なのだろう。「「やりたいことがある人」の夢を見る夢」を見ているのだ。
 最終話、唯一具体的な夢を持っていたルカは、「社会=現実」(レコード会社の販売戦略)によって歪められたかたちで実現した夢(=「謎のシンガー」としての活躍)を、元の夢(=「ネムルバカ」のコンサートでの歌唱)をぶつけることで壊して失踪する。具体的だろうが抽象的でとらえどころのない漠然としたものだろうが、いずれにしろ夢は「社会=現実」によって覚ませられる。しかし壊れるその瞬間に、見ているだけでも歪められた状態でもないルカのモラトリアムに見ていた夢が持ち主の頭を離れ現出する。それはやはり一瞬の夢・幻なのかもしれない。けれどもそれは確かに、柚実の前に現れるのだ。
 実際のところ「社会という現実」もまた夢に過ぎない。モラトリアムに見る夢から覚めても「現実」が現れるわけではなく、ただ次の「社会」という夢を見続けることになる。決して眠りから覚めることはなく、新たな夢の中で再び別の夢(=目的、叶えたいもの)を満たそうとする。他者の夢を見る夢を見る。
 一瞬現出した夢・幻とは何なのか。それこそ夢ではないもの(=そういう意味での「現実」?)なのではないだろうか。夢(=目標)と夢(=「社会=現実」≠「現実」)の摩擦によって発生した亀裂の間に見えたもの、薄くあいたまぶたの隙間から伺った天井のようなもの(ただしこれもまた夢であるとも言えるのだけれど)。ルカはこの夢の裂け目へと失踪する。ただしまた夢を見始めれば、ルカと柚実は再会できるはずだ、と思いたい。