KAGEROU(齋藤智裕、ポプラ社)

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私たちは「陽炎」を見ることができるのか。
陽炎とは
陽炎(かげろう)(shimmer)とは、局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折し、起こる現象。よく晴れて日射が強く、かつ風があまり強くない日に、道路のアスファルト上、自動車の屋根部分の上などに立ち昇る、もやもやとしたゆらめきのこと。(ウィキペディア陽炎(気象現象)」の項より引用)
『KAGEROU』――儚く不確かなもの。(amazon.com「K A G E R O U」商品内容より引用)
である。
前者の意味に置いて、私たちが見ているものは、光の屈折により揺らめいた景色である。
ゆらめきそれ自体を見てはいない。
歪んだ景色に言及することは、陽炎そのものについて語っているようで、その実、歪んだ景色を語っているに過ぎないのである。
批判するためでも、研究の材料とするためでもなく、純粋に読書を楽しみたい時、出来る限り物語を現実のコンテクストから切り離して読みたいと思っている。
本書「KAGEROU」は明らかにそれには向いていないが、出来る限りただの一冊の「本」として読んだ感想を書きたい。
出来レース疑惑等の騒ぎを含めた感想も、単純に内容についての感想でもなく、「本」としてである。
その理由はおいおい明らかにするが、そのためにも先に騒ぎの方に触れておこう。
幸か不幸か、「KAGEROU」はもはや名前のとおり陽炎それ自体である。
語られるのは背景であり、騒ぎ(amazon.comのレビュー欄など)であり、ほとんどは本そのものではない。
これに関しての良し悪しの判断は私にはできない。
そもそも事実がどうであるかが陽炎に歪められている。
陽炎という現象の前において、私たちはゆらいだ景色を見るものであると同時に、他のものから揺らいだ景色として見られる物である。
私たちは(その他多くの消費活動同様)消費すると同時にされているのである。
この事は、さらに陽炎=KAGEROU自体はぼやけさせ、ゆらぎだけを広めていく。
踊らされる消費者に対する批判も、出版社の行いへの洒落の効いた抗議もまた、別の角度から見れば同じ景色の一様に過ぎないのだ。
それは本人も十分に知った上のことであり、今更言うことでもないだろう。
本書が賞金2000万円の賞を受賞するに値するのか、1500円を出して読むに価するのか、という問に答えはない。
それなりの知名度がある出版社が保証した小説である。
もし値しないと思うなら、これ以降この出版社の保証を信用せず、関与しないことである。

この「本」は軽い。
重量的な意味ではなく、内容その他が軽い。
儚い、ではなくて軽い。
これは悪い意味でという訳ではないし、そして極めて意図的で、戦略的である。
まず「小説」や「物語」ではなく「本」(しかも紙の本)として読む必要がある理由を説明しよう。
一つは話題になった、232Pにおける致命的に見える印刷ミスと杜撰に見えるそれに対する対応。
二つ目は29ページと30ページのページ表記の字体。
そしてやはり話題になった空間の多いページのスタイルである。
あえて「見える」という言葉を使ったとおり、印刷ミスとシールを上に貼って修正するという対応は、それ自体が意図的であるかどうかはともかくとして、かなりこの本の本質に関わる。
シールを貼られた部分は、物語の最後の最後、しかも修正は極めて重大な意味を持つ。
果たしてこのようなミスがあり得るのか。
あったとしてそれが、裏から見れば簡単に修正前の状況が見えてしまうような修正に留められるだろうか。
あるいはこれが単純なミスから起こった状態だとしても、結果としてそれが流通したと以上、そこには出版サイドの意思を超えた読みの可能性が生み出されたのであり、あるいは超越的な何者かの意思による物語への介入を感じとってもいいかもしれない。
本書に関してはあくまでも手元にある「本」をそのまま受け入れて読む。
そうである以上、このミスはミスを装ったアプローチであると受け止める。
さて、この修正シールが提示する超物語的なメッセージ、すなわち「本」としてのメッセージは、「KAGEROU」が物語レベルではなく一冊の「本」として読まれるべきであるということを示している。
もし純粋に物語を読むのであれば、物語外の力であるシールは存在してはならない。
極めてはっきりと、しかも読みようによってはもっとも重要な場所にシールが貼られているのだから、「物としての本」レベルへ読者の視点をいざなっていると言わざるをえない。
二つ目に上げた29ページと30ページのページ表記の字体も同様である。
この二ページは、物語内で言及される「地図が挟まれる予定であったページ」であるが、ご存知のとおり本は開いたときに「偶数ページ数<奇数ページ数」になっている。
29ページと30ページは背中合わせの一枚の紙であり、その間に紙を挟むことはできない。
このエピソード自体が物語後半に登場するのに対し、29,30ページは序盤である。
まさか印刷ミスではあるまいと思って読み進めるうちに、このエピソードへの対応であったことがわかるのである。
この仕掛もまた、単に物語レベルで読まれるだけならば必要がない。
以上の二点は物語を超えた部分にも意味があるということを示している。
続いて三点目、空間の多いスタイルである。
行間や文字の大きさもさることながら、改行が多く、会話も多いため、空間が目立つのは事実だが、これをページ数稼ぎと見るのは軽率である。
何かを強調するとき、私たちはそこにしるしを付けたり大きなフォントを使う。
その部分を強調するのである。
しかし、別の方法によって、その部分を強調せずに、しかし強調しているように見せる方法がある。
それは相対的に周りを弱くするという方法だ。
先に述べたとおり、この本は軽い。
もし通常のスタイルを使用し、さらに重要部分を強調しようと力を入れると全体のバランスが崩れるおそれがある。
故にあえて空間の大きいスタイルを採用し、重要部分を強調しているのである。
この本の強調の方法は、一部のライトノベルなどに見られるような文字のフォントの変更ではない。
改行を使わずに、その部分だけ文字の密度を濃くすることにある。
文字の密度が高い部分をいくつかあげてみよう。
P40からの主人公ヤスオが自殺を決意した理由を述べるシーン(カギ括弧内)。
P78、脳が移植した場合の自分と他人について、ヤスオが考えていること(地の文)。
P80、キョウの「命の値段」と「肉体の値段」についての考え(カギ括弧内)。
P89以降、自分の肉体を値段に置き換えられたことによってヤスオがカネについて考えたこと(地の文)から、キョウとの自殺をめぐる考え方のやりとり(カギ括弧内)。
P206、自分の心臓が移植されたことにより元気になった少女(蛇足ではあるが20歳の女性を少女と形容するあたりに、萌え系ライトノベル的な想像力との違いを感じる)茜を励ますセリフ(カギ括弧内)。
全体で見れば少ない部分ではあるが、最初の状況説明をのぞいて、およそ物語の核心である。
ただし、その内容自体に特別なものは見られないということも付け加えておきたい。
あくまで、周囲を希薄にすることによって、これらの部分が強調されている、ということである。
さて、本の内側にだけ目を向けていたが、実は外にも目を向ける必要がある。
いや、むしろこれまでの中身に関するものは、これからの内容のためにあると言っても過言ではない。
外、と言ってもこの「本」の背景でもなければ、表表紙でも裏表紙でも、カバーのことでもない。
帯である。
少し長いが、帯の文章を引用しよう。

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<表表紙側>

第五回ポプラ社小説大賞受賞作
著者・齋藤智裕が、人生を賭してまで
伝えたかったメッセージとは何か?
そのすべてがこの一冊に凝縮されている。
小説の新たな領域に挑む話題作、ついに刊行! ポプラ社

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<裏表紙側>

哀切かつ峻烈な「命」の物語。
廃墟と化したデパートの屋上遊園地のフェンス。
「かげろう」のような己の人生を閉じようとする、絶望を抱えた男。
そこに突如現れた不気味に冷笑する黒服の男。
命の十字路でふたりは、ある契約を交わす。
肉体と魂を分かつものとは何か? 人を人たらしめているものは何か?
深い苦悩を抱え、主人公は終末の場所へと向かう。
そこで彼は一つの儚き「命」と出逢い、かつて抱いたことのない愛することの切なさを知る。

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物語を読むと、裏表紙側の内容説明はかなり大げさに思える。
主人公の絶望は、そのキャラクターのせいであまりにも軽く、不気味に冷笑する黒服の男は、死神のようなイメージをすぐに崩してしまう。
(P38 『ヤスオの言葉にキョウヤが目を輝かせた。』等)
主人公が抱える深い苦悩もまた、軽く見える。
大げさな煽りと軽い内容、しかしこの煽りこそが重要である。
なぜなら、物語のメッセージはこの帯の煽り文句にすべて込められていると言っても過言でなく、物語本文自体はこの帯のメッセージと対立するほどに軽い。
圧倒的な違和感。
これこそが、「『KAGEROU』という物語」ではなくこの「KAGEROU」という「本」が持つメッセージなのである。
そもそも帯に書かれた問いに答えなどない。
私たちができるのは、それをひたすらに問い続けていく営みだけである。
物語を読み始める前に、すでに私たちは「本」のメッセージを受け取っていたのだ。
しかしこれだけでは完結しない。
軽い文章、浅い人物の造形(登場人物としてもキャラとしても描写過少である)、空間の多いスタイル、大げさであり説明の放棄された設定。
安易に批判してしまいそうになるこれらの要素は、実はたった数行の問い、しかも本を開く前に目にすることのできる部分をひたすらに浮き上がらせるための様式に過ぎない。
多くのこの物語、本に対する批判は正確である。
しかしそれは織り込まれたものだったのだ。
その批判を乗り越えたところに、「KAGEROU」という「本」のメッセージがあるのである。
再度、一部を引用しよう。

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肉体と魂を分かつものとは何か? 人を人たらしめているものは何か?

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これは空間の多いスタイルの中で、比較的改行のない部分と符合する。
この本はこれらを問い続けることを訴えているのだ。
スバラシイメッセージを秘めた本である。