私の男(桜庭一樹、文春文庫)

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禁忌はそれを共有しない人間にとってはなんの制止にもならない。
意味があるとすれば、「自分は属さないが、それを禁止している空間がある」ということを認識するだけだろう。
例えば、ある動物の肉を食べないというのは、はたから見れば滑稽とすら言えるかもしれない。
しかしそういう価値観を共有している空間はある。
いま私たちが共有している「常識」も、別の空間に行けば「ある空間におけるローカルルール」に他ならない。
空間とは、地理的なだけではなく、時間的なものも含む。
近親相姦。
この本では淳悟と花という、父と娘のそれが書かれる。
個人的な話をすれば、近親”相”姦にかんしては嫌悪感がない。
が、積極的に肯定するということではなく、あくまで無関心、つまりご自由にどうぞというだけのことだ。
自分がそういう関係に興味があるとか、近親者でも婚姻ができるようになればいいと思っているというわけではない。
全ての異性もしくは同性に対して欲情するわけではないように、それはたぶん確率や状況の問題なのだと思う。
恋愛と言えば異性と、というのはかなり広く共有される認識ではあるが、そもそもこれ自体が疑わしい。
そもそも「恋愛」とは何か、「好意」とは何か。
あるいは「異性」とは何を基準にした異なる性なのだろうか。
なんとなくのイメージを持ったまま思考停止してしまえばそれまでだが。
「真の」という形容詞の傲慢さ。
「普通は」という前置きの暴力。
それらを無意味であると宣言する者の前で、それらを振りかざすことの滑稽さ。
滑稽で、そして暴力的だから二人を引き離そうとした老人は花に流氷に流され、その真相を知った刑事は淳悟に殺されるのではないか。
彼らは「善」ではあったかも知れないが、しかしそれは何の役にも立ちはしない。
お互いに必要ならば、合意ならば、それに他者が介入するのは無粋だ。
現実ではないから、というのは現実の近親相姦に関しても容認(基本無関心)派の自分としてはあまり使いたくない前置きではあるけれど、実際に書かれているテクストでは二人の行為は合意がある。
僕は未来が語る今の自分、今語る過去の自分を信用しない。
物語化された「私」は、常に今の私がつくりだした「私」に過ぎないからだ。
物語を否定するものもやはり物語でしかない。
この小説に書かれる関係を拒否するということを否定はしないしできないけれど、それが普遍的な感覚であるというのはおそらく妥当ではない。