蛇にピアス(金原ひとみ、集英社文庫)

蛇にピアス』(著:金原ひとみ集英社)を読んだ。
今さら感がありますが、むしろ今だからこそ読んでみようかと思って読みました。
かなり面白かったので、感想を書きます。
ネタバレ注意です。

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全編に渡って、身体的に痛い描写が多い。
主人公のルイは、下にピアスを通し、背中に刺青をし、サディステックなセックスの受けてとなる。
彼女の恋人のアマは拷問の末に犯され殺される。
にもかかわらず、浮上してくるのは限りなく精神的な問題だった。
痛みとはなんだろうか。
「君も、身体改造してみない?」という1ページ目のセリフ。
身体改造はなんども作中に登場する。
私たちにとって、身体とは唯一のものであり、そして自分がその自分の身体を所有しているということを確認する術は、痛みだ。
主人公のルイはその名前を「ルイ・ヴィトンのルイよ」とうそぶき、同棲しているアマの本名も、彼が失踪をするまでしらない。
しろうともしない。
また、この作品の中で描かれるのは、彼女の周りの景色だけであり、社会は、不愉快なもの完全に外部のものとしてかかれる。
閉じた、本当に小さなコミュニティの中で、過去と社会とに関わらない彼女が持ちうるものは、アマとシバ、マキ、そしてなにより彼女・ルイ自身でしかない。
痛みは自分の身体が自分のものであると言うことを確認するのに必要な感覚だ。
にもかかわらず、彼女がその肉体的な痛みに対して鈍感であるということが、下にピアスを入れるとき、あるいは刺青を入れるときに執拗に描写される。
彼女は、これらの行為では身体性を確認することが困難であるということではないだろうか。
では彼女はどのように身体性を確認するのか。
彼女が苦しがるのは、シバとのセックスだ。
サディストのシバが喜ぶというやや間接的な表現を通じて、彼女が確かに苦しんでいることがわかる。
その苦しみはしかし、肉体的なものでは必ずしもない。
アマの死後、死を望む彼女はシバを満足させることができない。
彼女の苦しみは、アマという存在がいることによって成り立つ、背徳というような感情によって起こるものだ。
作中に、彼女がアマという存在がいながら、彼にシバとの関係を隠していることにたいして背徳感を感じているような描写はない。
むしろ彼女は積極的にシバに抱かれているようにも見える。
しかしそれは、そこに単なる肉体的なマゾヒスティックな快楽だけを求めているのではなく、むしろ精神的にマゾヒスティックな快楽を求めていたというべきだろう。
故にアマが死んだ後、シバは彼女を抱くことができず、彼女も苦しむことができない。
彼女が自己の身体の所有を確認するために必要だったのは、肉体的な痛さではなく、精神的な痛さだったからだ。
このことは、アマを殺したのがシバだったのではないか、ということがわかった後の、彼女の変化からもうかがえる。
彼女はなぜ立ち直れるのか。
それは眼を入れていなかった刺青に眼をいれた理由を考えればわかる。
彼女の刺青は、アマの龍とシバの麒麟だ。
刺繍は痛み。
つまり、眼を入れるということは、それぞれの痛みが動き出すということを暗喩しているように思う。
それぞれの痛みとは何か。
ひとつはルイとシバの間の不均等な秘密の共有である。
シバがアマを殺したという事実を、シバはルイに知られていないと思っているが、ルイはそれを知っている。
しかしルイは、それを責めることも公にすることもしない。
それは消極的な共犯関係であり、そのことは彼女に確かに一つの精神的な痛みとして残るだろう。
これがアマの痛み=龍だ。
そして、彼女はまた、シバの中に、彼がアマを殺してしまったことに対する気持ちという痛みを見るはずだ。
それが麒麟の刺青=シバの痛みであり、彼女がこの二つの痛みを受け入れることで、刺青は眼を得て完成した。
外部にあった他者=アマという痛みの源泉が、トラウマという形でルイに内面化され、そしてそれが彼女が身体をたしかに彼女のものであるという確認、しかも身近にその痛みを共有しうる者を得た。
これはある意味で、非常にハッピーエンドな作品ではないだろうか。
表現が過激で、直接ではあるが、非常に繊細な作品で面白かった。
大げさな表現のわりに、スケールは小さいと思うかもしれない。
けれども、ここまでしなければ書けないリアルさが、確かにあるのだと思う。
自分あるいは自身の身体に対する不安に対して、有効な痛みという刺激、例えばリストカットで手に入れられる刺激は、しかし結局、精神的なものに勝てないように思う。
なぜならそれは、傷がいえるまでの一瞬のものでしかなく、なんども傷つけることで儀式化してしまえば、痛みではなく行為のみに意味が宿ってしまうからだ。
痛みがなく手首から流れる血に、しかし身体性を感じたとして、行き着く先は結局死か、あるいはその「克服」という、かつて疎んだ社会への服従でしかない。
ない、ように思えてしまう。
トラウマを帯びながら、なおかつ自分よりも大きな、同じ種のトラウマを抱えた他者を得るということは、かなりの幸福だ。
だれもがそれを達成できるわけではない。
ルイは自らそれを手にいれたわけでもなければ、なんども手首を切らなければいけないほどには追いつめられてはいない。
が、一方で、舌にピアスをはめる程度には痛みに飢えていた。
苦しみから救われるには、誰かが犠牲になって死ぬほどの、あるいは大きな犠牲を誰かに払ってもらわなければいけないのだろうか。
どうしてそこまでしなければ、自己の身体を確認できないのだろうか。
矮小化され、役に立たず、ただ空気の読めない存在としてしか描かれない「社会」は、彼女に、彼女たちになにをするべきだったのだろう。

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