フィクションをどう消費する?書く/描く?批判する?

最近集中的に吉屋信子作品を読んでいる。
・わすれなぐさ
花物語
・黒薔薇
・屋根裏の二処女
ついでに、これとは別件で評論とかを読んでいたら、吉屋信子評にいくつかぶつかった。
僕が吉屋信子を読んだのは、少女小説の元祖だからなのだけれど、吉屋信子評の方はジェンダーの問題と絡んだ本だったせいでそっちの話題から、やや批判的に書かれていた。
フィクションの消費に関して、ぼくはあまり現実の問題に絡めた読み方をしたくないと思っている。
もちろん、ものにもよるのだけれど、単純に娯楽として消費するフィクションが、例え現実に何らかの問題を抱えたテーマと接触していてもだ。
吉屋信子少女小説におけるそれは、つまり女性同性愛的なものなものなのだけれど、そこに見える思想が旧来の性別の役割や思想の枠から出るか否かと、そこに描かれる人間関係の消費とは、別に考えたい。
BLにしてもそうだけれど、確かに現実には同性愛の人がいて、一方で現実を踏まえない空虚な世界の中での同性愛が書かれるということに、不満があるかもしれない。
しかしまた、そんなこととは関係なく、それを消費したいという要求に対して、現実の問題は、それを訴える側は、そして消費する側はどう行動するべきなのか。
ジェンダーセクシャリティの問題はかなり複雑だと言うことが、ここ数カ月いろいろ読んできてわかった。
マイノリティであり、しかしマイノリティとしてしまうこともまた差別であり、かと言って現実的に差別がなくなるのにはかなり時間がかかり、フィクションの世界やネットでのやりとりではかなり装飾されたギャグ調の扱いをされていたりする。
そこにはいろいろな思惑や気持ちがあって、一概にどうすればいいのかということはない。
同性愛をテーマにした作品を書く/描くときに、作者はその現実の問題をあるていど把握スべきなのかというと、僕は必ずしもそうではないと思う。
作品の性格はさまざまで、たとえば女子校内でのありえないような人間関係を描くときに、それはいらないからだ。
ある種のファンタジー/メルヘンとして描かれる世界に、現実の問題は介入されるべきではない。
これは現実/作品レベルの問題ではなく、作品内の世界の問題だ。
例えば添えられる、同性に惹かれる事に対する戸惑いに対して、それを異性愛絶対主義的だと言うのは正しいが、しかしあくまでも関係性のリアリティを描くレベルの話でああるばあい、その批判は的を射ているのだろうか。
しかし一方で、作品内に閉じこもる限りにおいて、何をしても自由というわけにも行かないのは、作品が消費されるということは、つまり作品は現実に存在しているという当たり前のことなわけで、そこに発生する影響力を無視することはできない。
いずれよりきちんとまとめるつもりだけれど、なんていうか難しい問題だ。