若者はなぜ殺すのか アキハバラ事件が語るもの

『若者はなぜ殺すのか アキハバラ事件が語るもの』(著:芹沢俊介小学館101新書)を読んだ。
最初に秋葉原の無差別殺傷事件について若者が書いた感想を紹介し、以降の章でも若者の側に立った議論を展開している。
ここ十年くらいに起きた事件のケースを参照しながら、菅原哲夫氏の「隣る人」の概念や、無差別への攻撃衝動をアノミーと報復衝動とで説明したり、家庭内における対立における親の無理解をあげるなど、若者はダメだ、という論調ではない。
個人的にはかなりうなずける部分も多かった。
しかしばく然とした違和感があり、それが具体的に感じられたのが、ある若者の投書と、その投書にたいする反応を取り上げた場所だ。
若者の投書は、「生きていればいつかいいことがある」と「死ぬ気になればなんでもできる」の否定とそれに対する反論の募集で、それに対して様々な年齢性別の人が「反論」をよせ、著者も私信として伝えるとしたらということで三つほど自分ならどうするかという例をあげている(著者の「私信」は現在の状態に対する対応であり、各「反論」の投稿者の投稿はやや理念的である)。
僕が気になったのは、「反論」に対して「気持ちは青年に十分に伝わったことと思う」という箇所だ。
この投稿してきた若者は、反論はほしかったがしかし気持ちが伝わる(=「反論」の投稿者の意見がその投稿者の意志に近い形で伝わる)という意味での反論ではなく自分の意見にたいする単なる反論でしかなかったのではないかと思う。
これは「論破してみろ」と若者が言っている、という意味ではなく、「こういう風に思っている自分がいて、こんなに反論してくるひとがいる」ということ自体が欲しかったのであって、理解出来ないような他人の生に対する価値観を教えてもらいたかったわけではない、という意味だ。
解決を求めていない、というよりも、質問・投げかけに対する回答の中身ではなく回答がくることそのものが目的なのではないか。
個人的に、どの「反論」も心に響かなかった。
もちろん、誠実に書かれているのだろうけれど、結局それはまず投稿者の「自己肯定的意義」が感じられる。
他人の好意に対して、こういう言い方はよくないのだろうけれど、全くの善意というものはリアルではなく、お互いに得があってはじめて行為が行われる、と思ってしまう。
それは本人が意識しているか否かの問題ではない。
そういうモノの存在は、これもまた本人が意識しているか否かにかかわらずつねに頭のなかに過ぎる問題で、具体的な利益がコストを超えていることの明示という経済的な感覚による反論でなければ、リアルではないのではないか。
純粋な善意を信じられるのは、それなりの土台がなくてはならず、しかしそれが無いのが今の混沌とした社会状況であり、「自己崩壊」に歯止めがかけられない原因ではないか。
だから、これで「答えが届いた」と言ってしまえる状況に、じゃっかんの違和感を感じざるを得ない。
彼に対する返事は、「勝手にしろよ」でよかったのではないか。
そもそもそんな議論が無意味なのだ、と。
違和感は、なにかベースに成る場所があると考えている人たちと、そんなものは無いんだという人たちの、神学的な論争に対する「ある側」の「あるけど、でも多少譲歩しよう」というスタンスでの反論なのかもしれない。