タカハシマコ『それは私と少女は言った』

ネタバレ注意

 同級生の五人の少女の目の前で、一人の美少女(鳥子)が命を断った。少女たちにはそれぞれ、その美少女の死を望んでいた。三年後再会した彼女たちのもとに、死んだ美少女のものと思われるブログのアドレスが届く。

        • -

 美少女の死をいかに自らのものとするのかという、死を巡る五人の少女と一人の青年の物語だ。崇拝の対象としての完璧な少女とは時間的な存在ではなく、静止した時間の中にのみ存在できるらしい。時間を止めることで完璧な少女は完成する。二人の少女が彼女の死を願う理由は少々ことなっているものの、美という価値観に基づいていることは変わらない。
 死が少女を完璧にするのは、それがもはやその少女の非少女性をもたらさないからだろう。それぞれの中の肯定的にせよ否定的にせよ、少女に投影された完璧さが揺らぐことは、死という絶対的な出来事によって封じられてしまう。
 「それは私」と少女が言うのは、自らのある部分を「少女」に投影しているからだ。死んでもはや触れることのできない彼女は、投影した「私」の像を揺るがすこと無くただ見つめ返すのみ。少女たちは「鳥子」を見てなどはいない。ただ自らの鏡像を見ていただけだ。だれも「鳥子」に出会ってなどいない。
 一人鈴芽だけが、鳥子からの眼差しを求めていた。彼女は「鳥子」に見出すべき「私」を持っていなかったし、持つことはない。もちろん眼差しは鳥子ではないのだから、いずれにしろ鈴芽「鳥子」に出会ってなどいないのだけれど、鈴芽だけはそれを気にしない。もとから出会えることなど無いのだから。
 鳥子の幽霊、死の絶対性を揺るがせる「彼女」、五人の前に再来した「鳥子」はそれぞれの鏡像にゆらぎをもたらした。文字を通して再来した鳥子の「声」を、彼女/彼たちは鳥子の姿を絶えず見ていながら、決してその声を聞いてなどいなかった。皮肉にも唯一鈴芽だけがその「声」を……。
 少女たちの「私」をいくら重ねても、決して「鳥子」は再来しない。いくら語りを重ねようとも、重ねられた語り自体が出会いそこねなら、決して「鳥子」に再会することはできない。ただ語りのスキマから響く幽霊の声だけが、かすかに少女を聞こえさせるだけなのだと思う。