ヘヴン(川上未映子、講談社)

残酷なイジメのシーンも印象に残るけど、それ以上にいじめられているふたり、主人公とコジマの間にあるどう仕様も無い溝が悲しかった。

以下ネタバレ注意

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意味が無いのならば意味があるかのように原因を装ってしまえばいい。
そうすれば理不尽である物事もすべて簡単な説明程度はできるようになる。
原因がわからなければ、原因になるものを作ってしまえばいいのだ。
そうすればわかりやすく、それを糧に生きることができる。
本当に?

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殉教者と虚無主義者の間で。
コジマの「しるし」は自ら負ったものであり、なおかつ脱ぎ去ることができてしまうものだ。
彼女は自分の環境に意味を見つけるために、慰撫し、しかし同時に信仰する対象を求めた。
それがダメな父親であり、斜視で、自分と同じようにいじめられている主人公の「僕」だった。
コジマの「僕」に対する視点は、仲間であり信者でありそして依存の対象である。
彼女は「僕」とイジメという体験を共有し、手紙でのやりとりや行動を共にすることで仲間でいる。
同時に、世界観を「僕」に説明することで彼を導こうとする。
彼女が「僕」の斜視にこだわるのは、それが自然のものだからで、それは自らが選択的に身につけている「しるし」よりも重い。
コジマは自分がいじめられるのは、自らの選択による容姿やふるまいの問題であり、彼女はそれを自覚している。
彼女はまた、「僕」がいじめられるのは斜視が問題であるとしている。
しかし、そこには必然があると思っているコジマに対し、百瀬は斜視がイジメの原因ではないという。
偶然強制的に負わされた「しるし」を持つ「僕」と、たまたまイジメの対象になっているだけの「僕」、の間に主人公自身はいる(百瀬は主人公がどこにいようが関係ないだろうが)。
「僕」とコジマの齟齬は、自ら「しるし」を負い殉教者となりたいコジマほど、「僕」はそもそも自分の「しるし」にこだわっていないしある種の宗教も必要としていないし犠牲者になることに酔ってもいないことだ。
その意味では百瀬に近いところがある。
コジマが「僕」に求めたのが殉教者としての仲間であり、自分の信者であり、そして自然の「しるし」を持っている(ゆえにいじめられている、とコジマは思っている)人間である。
しかし「僕」が求めたのは手紙をやり取りする、分かり合って話ができる仲間でしかない。
だから「僕」は「しるし」(斜視)が治せることをコジマに伝えることで、二人の関係は(コジマによって)大きく崩れてしまったのではないだろうか。
コジマと百瀬が対極にいるとしたら、「僕」はそのどちらからも中途半端な位置にいる。
虚無主義的な考え方もできなければ、殉教者としていることもできない。
僕が流した涙は公平である、しかしどちらにもおそらく届いてはいない。