バニラ A sweet partner(アサウラ、スーパーダッシュ文庫)

『バニラ A sweet partner』(著:アサウラスーパーダッシュ文庫)を読んだ。

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〜あらすじ〜
高校生の海棠ケイと梔ナオは偶然手に入れた狙撃銃で狙撃事件を繰り返し起こす。
やがて警察にマークされた二人はそのことに気がつかず事件を起こし、追跡から逃れて学校にたてこもるが……
ネタバレ注意

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主人公ふたりには、自分の行為によって人が死んでいるということに対する一般的な反省や後悔はなく、むしろゲームを楽しむかのように狙撃する。
何の訓練も受けていない女子「高校生」が「偶然に」狙撃銃とハンドガンを手に入れ、それを天才的に使いこなす。
逃走先の学校では、放送部の仲間の協力もあって特殊部隊と互角以上にやりあう。
結末も含め少々都合が良すぎるようにも思えるこれらの要素を抱えながらも、しかしこの小説はある種のリアルさを保っている。
それは①銃の描写が(やや過剰に)リアルであること②そしてなにより海棠ナオと梔ケイの関係が大きい。
キャラクターは物質世界に「キャラクターとして」は存在しない。
しかし「関係」は、物質世界における特定の二者あるいはそれ以上、もしくは第三者から見た二物間などに発見されるのと同等のものが実在する。
実在する人間関だろうか、キャラクター間だろうが、「関係」そのものは不可視だ。
おそらく(全てではないにせよかなりの)ライトノベル的な想像力は、キャラクター同士の「関係」のリアルさによってリアリティを保っている。
二人がなぜ狙撃が上手いのか、そして人を殺すことに躊躇がないのか、そのことに明らかな(常識的)説明はない。
銃の特性や、そもそもの常識に対する彼女たちの疑いと不信はたしかに説明にはなりうるが、特に後者は弱い。
幾度となく繰り返されてきた問いと回答がまた繰り返され、そしてそれは途中で邪魔が入って止められてしまう。
しかし彼女たちはそういうキャラクターなのだ、ということで納得をすることが前提になる。
実在はしない彼女たちは、しかしそれゆえに自由でありうる。

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彼女たちの放つ弾丸が狙うのは力や常識に守られた社会とその理不尽さのメタファーとしての男であり権力を行使するものだ。
「常識的」ではない彼女たちが、それらを撃ちぬくことに不思議はない。
それはむしろ当然のことで、そこに後悔や反省が入り込む場所はもとよりなかった。
(意地の悪い言い方をすれば)メタファーとしての権力を行使するものは、彼女たちが彼女たち(=女性であり子ども)であるがゆえに(常識的に)躊躇を覚え、行動が制限される。(この点にこの作品が百合的な想像力を内包していることの上手さがあるように思う)
ルールを最後まで無視したプレーヤーと、最後まで律儀に守らざるを得なかったプレーヤーの戦いははじめから決着がついていた。
(最終的には元川たちが「勝った」ようにもみえるが)

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銃のことはよくわからなくても楽しめる、知っているとたぶん結構楽しい小説。
百合小説としてもお薦めです。(ただし「常識」を持って読んでしまえば『バニラの房を口にする猿』になってしまうかもしれないけど)