君が僕を4 将来なにになりたい?(中里十、ガガガ文庫)

『君が僕を』(著:中里十ガガガ文庫)の第四巻(最終巻)を読んだ。
メモ的にひとまず感想を書いてみました。
以下ネタバレ注意

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前巻までの感想はこちら

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最終巻であるこの巻では、エピローグの前の数ページで、前巻までの構造にさらに一枚の上乗せ、つまり「三十七歳の淳子が書いたテキスト」という形式の小説だったものが「『三十七歳の淳子が書いたもの』をその戸籍上娘とされていた女性が発表したテキスト」という形式の小説になった。
なぜメインのストーリーである淳子と真名の物語からこれほどまでに距離をおこうとしているのか。
それは真名が決定的に(否ではなく)避選択、避決定的であるということのリアリティを確保するためではないかと思う。
詳細については後日書くとして、以下簡単に思ったことを。
「本当がつくと、本当じゃなくなる」(4巻215P、239P)
「あんたは、将来なにになりたい?」「いいえ」(4巻137P)
この物語にはほとんど社会を代理するような「大人」が主要なキャラクターには存在しない。
淳子の父親は父親の遺産を食いつぶしながら「芸術」をし、新しい母であるれのあも「まとも」ではない。
挙げるなら「内井アキ」だろうか。
彼女は橘聡の「芸術」を「講釈」し、そして彼の死後にはそれを彼の望まない形で社会化する。
予め言っておけば、橘聡は「芸術家」なんかではないだろう。
彼はタダのアグレッシブなニートであり、「正しい」のは内井アキなのだ。
彼が芸術家あるいはまともな人間として表現されている(と私は思った)のは、ひとえに橘淳子がそう思っていたからではないだろうか。
父親として、あるいは社会人として彼は「まとも」ではなくそして人間としても「まとも」ではない。
真名に対して何かを言えるような人間ではない、「常識的」に考えれば。
しかしそれが成立するのは、先に述べたとおり、ひとつは(彼に好意的と思われる)橘淳子が書いたテクストを私たちが読んでいるからであり(つまり描写そのものが、彼の「正しくなさ」を和らげているのではないか)、そして彼が「大人」として真名に相対しているわけではないというところで成立する。
もう少し順を追って書くと、この物語には「大人=社会を代理する存在」はほとんど描かれず、キャラクターのほとんどは「子ども」である。
いや、「子ども」というよりも成熟を拒否しているキャラクターだ。
成熟=社会の常識や考え方、ルール(そしてそれらが描く『筋書き』)を受け入れるということであるとするとき、それに当てはまるキャラクターはいるだろうか?
(ここでは「登場人物」ではなく「キャラクター」という語をあえて使っている。
「登場人物」はまさに実体を伴いうる=書かれた以上のものを想像させる『キャラクター』であり、「キャラクター」は書かれた以上を想像しにくい『登場人物』とする。
なぜこの使い分けが必要なのか。
それは、メインの(つまり淳子と真名の)物語は作中の登場人物が発表したテクストに過ぎないし、発表者と書き手は異なっている。
そして、メインの物語が書かれたのはそれが起こってから22年後のことである。
「幸せの記憶を、私は信じない」(4巻P233)
細かな描写が「事実」であるかどうかを、読者は(そして物語を書いた時点での淳子も、発表した絵藤知恵も)知ることはできない。
なにより「本当がつくと、本当じゃなくなる」と言われている以上、テクストという形になったものに「本当」を求めることができない。
そもそも小説は「嘘」であるが、一応のお約束として、そこに書かれているものは物語レベルでは「事実」として読むことが多い。
しかしこの小説はそれを徹底的に拒んでいるように思える。
仮にこの小説自体が『「絵藤知恵」が書いた全くのフィクション』だったということにしたとして、そこには何の問題も生じない。)
おそらく内井アキをのぞけば、それは淳子に他ならず、彼女は「子ども」でありながら「大人」を部分的に担当している。
先の避選択、避決定の話にもどると、これらが選択できるのは基本的に「子ども」だけだ。
なぜなら、社会人として生活するにはかなりの程度の選択や決断を「社会」という基準に基づいて行わなければいけいない。
質問に対して的はずれなことを答えることは許されず、「筋書き」に沿った答えを選択することを決断・決定し実行していかなくてはいけない。
それにあまり従わなくていいのは学生か自由人であり、「社会」人にそれは許されない。
さて、真名は橘聡に彼女自身は「たいしたことはない」とされ、れのあには「お嬢様」と言われる。
この二人の指摘はおそらく的確であり、同時に極めて重要である。
真名は過剰に「子ども」であり、彼らもやはり「子ども」なのだ。
あるいは脱社会的であるように振舞うという意味で「中二的」と言えるかも知れない。
橘聡が真名に対して放つ言葉に極端な違和感がないのは、「大人」から「子ども」に対する/「社会」から「中二」に対する言葉ではなく、「中二」から「中二」に対する言葉に他ならないからではないか。
この小説は構造的にも、文章の構成も分かりづらい。
前者に関しては先に述べたが、後者に関してひとつその原因を挙げるならば、ほぼ何も「断定」していないし明記もしていないからだと思われる。
さらに、淳子の一人称で物語が進むため他のキャラクターの心理はそもそも分かりづらいし、さらにこれが書かれた物語であるということを「メインの物語」外の人物とキャラクター(テクストを書いている淳子と、淳子のイメージする「縁」)が度々登場することによって思い出させる。
私たちはキャラクターに一度も触れずにこの小説を読み終えることになっている。
そのため、細かな動きや言葉は全て間接的にしか伝わらないし、淳子がテクストを書くにあたって行ったかも知れない補正を考慮しようとすることによって、あるいはさらに絵藤知恵や発表のための修正が入った可能性を考慮すると、「メインの物語」自体の信憑性は相当に不安なものになる。
端的にいえば、正確に読むことはほぼ不可能であろうし、そもそもそんなことは想定されていない。
キャラクターたちも、そして「メインの物語」の結論からして、明らかに社会的であることを避けているし、決定や選択を避けている。
そして小説であり物語であるが故に、それらの「決定や選択を避ける」という現実では不可能としか思えない選択が、リアリティを持つ→反転してキャラクターのリアリティにつながるのではないだろうか。
また、これらを避けることによって、「書かれている物語」の閉じられた広がりが反転して広がり、無限の解釈とそして謎を生み出しているように思える。
いくらでも過剰に読み込むことが可能になり、しかし結局答えは存在しない。
故に奥がふかいように見える。
ひとまず結論しよう。
この小説は結局のところ真名の話であり、真名と同じようなものなのではないかというのが私のひとまずの感想であり結論である。
真名が神秘的なのは社会の描く「筋書き」には乗らず、決断も選択も避け、なおかつその過剰さによってそれが「ほとんど」揺るがないところにあるのではないか。
それは淳子にとって宗教的であり(めぐまれさんの宗教性と、淳子にとっての真名の宗教性はおそらくやや異なっている)、しかし同じような性質の人間から見ればたいしたことのない物に過ぎない。
「君が僕を」がたいしたことのない小説である。ということではない。
この小説の「哲学的さ」あるいは「神秘性」がむしろ過剰な読みや、マニアックな探求それ自体に寄るものではないか?ということだ。

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この読み自体もまた妥当性を持たず、意味のないものだということは承知のうえで、ひとまず好きな小説が完結したので感想を書いてみた。
後日時間があるときに改めて、自分の興味のある宗教や郊外とも絡めて、感想を書きたいです。