神話が考える ネットワーク社会の文化論(福島亮大、青土社)

『神話が考える ネットワーク社会の文化論』(著:福島亮大、青土社)を読んだ。
図書館で借りた本で、何人か待っている人がいたのですでに返してしまったため、手元にあるメモをもとに感想を書く。

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タイトルにある「神話」とは、「情報社会における情報処理の方程式」のことを指す。
偶然を必然に転換し再安定化させるもの、膨大な情報を圧縮するものであり、それら(複数ある)は環境情報に依拠してつくられる。
偶発的なものを一つの単位にまとめるシステム=神話の働き、あるいは構造等について、富野由悠季村上春樹ルイス・キャロルなどのサブカルチャー(著者は大衆的文化の脱領域的特性、副悪実聖の発生や吸着に優れた性質を、サブカルチャーを分析対象にしたことの理由としている)を取り上げながら解説されている。

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正直半分も内容を理解できたかどうかすら怪しいし、手元に本がないので詳しい書評などかけるわけもないのでふわっと。
読んで思ったのは、人間にできることはなにか?という単純な疑問だった。
つまり環境情報が情報処理をして、見やすい世界を見せてくれる時、それに従うだけでも僕たちはたぶん生きていくことができる。
それは別に新しいことではなく、例えば常識にしたがって生きる(戦後日本的生き方)ということを疑問をもたず自然に受け入れるということと似ている。
しかし一方で、情報環境に依拠しつつも、神話は参照先として人間を参照しなくてはならないと著者はしてきする。
誰を対象に情報を圧縮するのか、それは人間だ。
例えば著者は、第二章でなじんだ神話の再神話化について、富野由悠季∀ガンダムにおける固着を複製のエロスによって解き放つ精神分析的な仕組みや、スター・トレックの前史的想像力を参照しながら言及する。
しかしそれすらも一つの神話にすぎず、それを神話とすることもまたさらにメタ的な神話の想定するところだ。
肯定された、あるいは否定することが不可能なネットワーク社会が紡ぎ出す神話の中で生きる「私」とは何か、「主体性」とは何かを考えずにはいられない。
しかしそれは絶望ではなく、少なくとも参照先として神話の生成につねに関わっているということの自覚と、それを縮小・固定しないための何かができるのではないかという可能性への思考だ。

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個人的に、∀ガンダムがページ数を裂いて取り上げられていたのがうれしかった。
あまり大きく取り上げられているのを読んだことがなく、ファンとして少し悲しかったからw
ちょっとあれなので、
再読したときにでも、再度感想を書きます。