君が僕を 1〜3(中里十、ガガガ文庫)

『君が僕を』(著:中里十ガガガ文庫)の1〜3を読んだ。
(4巻の感想はこちら)
どろぼうの名人』『いたいけな主人』の中里十氏の作品。
重い。
文章も内容も、別にそれほど暗いわけでも重いわけでもないにも関わらず、どうしようもなく重い読後感がある。
3巻のあとがきによると、あと一巻で完結するようなので、ストーリーではなくこの読後感、あるいは雰囲気についての感想をかくにとどめておこうと思う。
ストーリーを含めての感想は、完結後に。
この小説の構造は少し面倒くさい。
物語を語るのは、主人公で橘淳子であり、視点の移動はない。
しかし、まず最初の段階で彼女は三十代後半で娘がいる。
メインの物語は彼女が中学生の時の話で、彼女が誰にあてるでもなく書き起こすという設定になっている。
つまり、物語の中の登場人物が書く物語という構造になっている。
この淳子(大人)が語る物語は、淳子(中学生)の視点で、ある女の子との出会いとわかれ(三巻の段階ではそこまで描かれていないが、それはすでに一巻の段階で想像させられる)だ。
その女の子はこの小説のヒロイン(主人公も女性であるため、ヒロインが二人いることになるが)・絵藤真名であり、彼女は事情があって「恵まれさん」なることをやっている。
ストーリーの内容については、後日感想を書くときに触れようと思うので詳しく追わないが、彼女がその「恵まれさん」になった経緯には彼女自身の少々変わったキャラクターが関係している。
そしてもう一人、長谷川縁という女の子がいる。
彼女は真名が「恵まれさん」になる直接の原因を作った人物で、もったいぶった喋り方をする。
そして彼女は、淳子(大人)の書く物語のなかに、登場人物として登場すると同時に、物語から離れた存在として、物語のある種の説明役として登場する。
それは淳子(大人)の中の「縁」であり、他者として機能する。
物語の中で物語られる物語と並行した実在のない存在として、淳子に書かれる彼女は、普通に考えれば淳子の中の「縁」であり、そして「縁」+必要な他者であると言える。
しかし、この構造が(この小説の)読者に想像させるのは、書き手=中里氏の存在ではないだろうか。
淳子に書かれる存在としての「縁」と淳子は、その紙の上で会話をする。
ある時は淳子が言ったことに対して縁が訂正をしたり、また逆もある。
物語から離れた縁は、しかし淳子に書かれる存在である以上、淳子という個人の範囲から離れることはできない。
純粋な他者ではなく、あくまで淳子が想定する「女子校の王子様」という紋切り型にはまった一人の人物にすぎないはずだ。
にもかかわらず、物語から離れた縁の自由度は高い。
それは自己の中の他者との会話ぎりぎりの線であるように思える。
ここで思い出されるのは、これが小説であるというあまりにもあたりまえの事実だ。
もしこれが小説ではなく、純粋に淳子の視点であったならば、「縁」は淳子の範囲から離れることはできないが、小説には書き手という、語り手の語り手という存在がいて、その視点から「縁」が描かれた場合、容易に淳子の範囲を超越してしまえる。
淳子と縁の意見が食い違うということがあると、小説の外部にいる作者という存在を意識せざるを得ない。
これはどういう事なのか。
つまり 読者>作者>淳子(大人)>淳子(中学生)>真名 (作者と淳子(おとな)と淳子(中学生)のどこかに縁が時々入る) という構図ができる。
ヒロインの真名は、そもそも物語の語り手の淳子が「私は今でも納得していない」と言う程度に理解が難しい、あるいは理解できないキャラクターとして存在している。
その上、作品の構造上、読者と真名というヒロインの距離も極めて遠い。
常に語られるだけの存在であり、なおかつその語りすらも遠くから伝えられたものでしかない。
淳子と真名の物語でありながら、淳子の比重があまりにも重く、そして淳子の中の「縁」という淳子の分身(しかし作者の存在を感じる)がいる結果、真名の存在感が薄い。
だから三巻の最後に、淳子と娘が真名の墓参りをするというシーンがあっても、僕はそれになんの衝撃もうけなかった。
関係性で言えば、むしろ縁と淳子の関係になにかしら惹かれるものがあるような気すらするわけだけど……。

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他にもいろいろあるんだけど、ひとまず完結してからにします。
理屈こねましたけど、すごく面白いです。
絵も巻を追うごとに素晴らしくなっていってる気がします。
おすすめ。
(5/13:登場人物名「順子」を「淳子」に訂正。なぜ間違えた…)