抽象的なのはよくないな……

あまり抽象的なことを書いても仕方ないし、そもそもこのブログを書こうとしたときのことと根本的にずれるので、さっきの記事はたぶん大失敗だ。
何に対して失敗かというと、単純に自分の目的に対してなわけだから、もともと困るのは僕だけだけど。
それでいてあまりにもわかりにくかったので、蛇足というか補足というか、まあ今日は少しお酒を飲んだので、だらだらと思うことを。
さっき何が言いたかったのかと言うと、過去の一点における感情を、自己から引き離して利用されてしまうことの恐怖。
例えば僕が明日にでも殺されたとして、殺される瞬間にいろいろ思うと思うんだけれど、でもそれってその瞬間で完結するもので、それは僕が死ぬと言うことによってその思う主体が消滅するという意味でもあるし、感情自体がその一瞬のものであって、後日再生する場合には別の意味付け・再評価をなされるという意味でも在る。
だから、殺されずにケガだったとして、なおかつその瞬間の僕の感情を思うのが僕だったとしても、正確にその瞬間に頭に浮かんだ思考を再現することはできない。
まあそれはいいんだけど、とにかく僕が死んだら、その直前に殺人者に対して抱いた感情やこれまでの人生に対する思いみたいなものも消えると思っている。
にもかかわらず、場合によっては僕のこの一瞬で消えてしまった感情を、ある角度から見れば永遠のモノのように語られる可能性があるということが怖い。
つまり「〇〇の無念ははらす」というような言われ方をするのがこわい。
葬式が生者のための儀式に過ぎない(と、僕の宗教観では思っているし、たぶん無神論に近い人はそう思ってるだろう)ように、死者の感情もまた、死者が死者になったじてんで生者のもの以上にはなりえない。
生者の中で生き続ける「私」は、実態のない亡霊であって、決して「私」ではない。
生者同士の関係であっても、他者とは「現実」に身体というスクリーンであり、そこに投影される「私」の中のその他者に過ぎない。
死ぬことでその身体性を失いながらも、なおその一部が実在するものとして、現実の空間になんらかのスクリーンをつかって映し出されるならば、それは亡霊としかいえない。
だから、死んでも誰かの中に存在し続けるということの意味は、安心ではなく亡霊化ナノではないかと思う。
これは別に、例えばなんらかの宗教観を否定したり、あるいは死者のために裁判を闘うことを否定することではないのだけれど、しかしそこに明確な違和感があるということの表明で、このことをストレートに殺人などの時効廃止のニュースに絡めることはどうなのよと思ったので、なんかすごく曖昧な書き方をさっきしたんだけど、まあ結局書いた。
死んだ人間のために誰かの死刑をのぞむという行為を、僕がどうしても不気味に思ってしまうのは(心情的には理解ができるし、死刑の反対でもなければ、犯罪の肯定でもないけれど)、結局その前提となる死者が、亡霊という形でしか存在していないということ。
かといって、それが間違っていると言うことを言える立場でもなく、資格もなく、絶対的な根拠もないわけで、ただニュースを見ては悲しい気持ちになるだけなのだけれど。
(亡霊という言い方が死者を冒涜しているのではないかと思ったけど、そもそも亡霊と死者は別物であり、前者はあくまでも何らかの関係者の描く死者の姿をしたなにかであって、死者ではない)

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ちょっとここ数日、いろいろあって内容があれでしたが、明日からはもとに戻ると思います。
一応「書評ブログ」として、ランキングに登録してしまっているので(笑)、本の感想も書きたいし。
あと、けいおん!!の二話も見てから感想を書こうか思ったり。
それにしても雨がすごいですね、札幌。
風も強くて音が怖いです。