なんだかなぁ

仮に人が生きているのが夢だったとして、おそらくそれからさめるということはない。
現実に対して夢がある、というわけではなく、あくまで便宜上夢という喩えを使っているからでもあるし、やはり現実はあるのだけれど、それでも目が覚めるということはない。
覚めたと思ったところでそれはそういう夢でしかなく、あるいは目が覚めたとしてそれが現実だと気がつくことなく、夢に吸収される。
いかに夢を渡り歩くか、という問題であって、あるいは「夢」が不適切ならば「虚構」や「幻」と言い換えてもいいのかもしれない。
物心がついたころには、常にそういった曖昧ななにかの中に漂っている以上、それ以外の世界は想像するしかないし、夢から紡ぎ出せるものは夢でしかない。
亡霊とは何ものなのかと、昨日今日話題になっているとあるニュースを見て考えた。
亡霊、あるいは死者の想い、無念は、いまここにそのままあるものではない。
「無念だった」としても、今なお「無念である」というのは、その死者の思い出はなく生者のものでしか無いのではないか。
例えば葬式は生きている人間のためのものだと言われるが、死者の思いもまたその通りだと思う。
「死者の思い」は生者の夢を悪夢とする「黒い夢」であり、どうじにその悪夢を夢として駆動するための「黒い光」だ。
そこに存在しない思いを、しかしあると思わなければいけないのは、あるレベルでの夢を渡り歩くために必要な行為だと思う。
悪夢となってしまった夢から醒めることは、おそらくできない。
私たちは自由に夢を渡り歩けるわけではなく、常になんらかの影響を前の夢から受ける。
それは特殊な例を除いて。
あるいは夢でありながら、その身体性の影響を受けざるを得ない。
これもまた特殊な例を除いて。
現実に戻るという意味で夢から醒めることがないにも関わらず、しかしその夢見る主体を想定した影響を受けている。
自己の夢を含めて他者の夢を俯瞰しているという状態は、しかしそういう夢にすぎない。
結局夢からのがれる術はない。
そこに何を見ようが、基本的に自由であり、最終的に回収されるのは結局個人のそれに他ならない。
しかし私たちはある程度共通の夢をもち、他者の見ているらしき夢をみているという夢を見ざるを得ない。
そしてそこに現れる亡霊が、僕にはどうしようもなく怖い。
亡霊は真の意味で亡霊ではない。
それはあくまで亡霊がいるという夢をみている人がみている夢のなかに存在し、その人がそういう夢を見ているという夢をみている僕の夢に、人が亡霊をみているという事実としてあらわれる。
亡霊は真の意味ではいないにもかかわらず、確実に夢のなかに存在する。
それは直接なんらかの影響を夢をみる主体には与えないが、主体が見ている夢には影響をあたえるし、その夢をみている夢をみている私たちも見ることになる。
無い無念が実体化し、亡霊となる。
亡霊が黒い光であり、その夢を動かしながら、しかし悪夢の原因になっていることを、僕たちは主張することはできる。
しかしそれは結局なんの意味もない。
それは悪夢に生きる人には自覚されていることでもあるし、自覚されていないにしろ、その悪夢を外から見ているという夢のなかにいる私たちの言葉は、悪夢の中のひとには届かない。
見えない。
その黒いマッチポンプ的な仕組みを破壊したとき、その悪夢の持主が悪夢から解放されることはないだろうし、そもそもそんな資格を僕は少なくとも持っていない。
しかし亡霊が怖いし、黒い仕組みも怖い。
そして、ある意味でそれがあることを羨ましく思っているのかもしれない。