底辺女子高生(豊島ミホ、幻冬舎文庫)

『底辺女子高生』(著:豊島ミホ幻冬舎文庫)を再読した。
豊島ミホさんが高校生の時を振り返って書いたエッセイ集。
檸檬のころ』の対になるような『負の部分を思いっきりやってやれ、という気持ち(あとがき より)』で書いた、というだけあって、「女子高生」という言葉で連想される華やかさはない。
しかし「底辺」という言葉の持つ負のイメージもあまり感じられないように思える。
数ページに一枚挟まれる豊島さんが書いたイラスト(かなりうまい)とそこに添えられたちょっとしたコメントは面白いし、ほとんどのエピソードには「こんなことあったな」と笑えるようなことが書いてあって、今思えば懐かしい思い出だなとも読める。
ところどころに、小説の元ネタになっていると思われるエピソードがあって(例えば『下宿生活の掟』は『檸檬のころ』の『ジュリエット・スター』の設定ほぼそのままだし、出てくる場面はいろいろな作品に登場する風景が連想できる)、こういうところからあの話が生まれたのか、という楽しみ方もできた。
ただ、それだけではない。
どのエッセイもとても細かいことが詳細に書かれている。
それに加えて、前述したようにかなり小説の世界とリンクしているエピソードが多いこと、そして書き方によって、エピソードのおきた時間が相対化されているように感じる。
小説が、読むことによって作品内の時間と自分の感覚をリンクさせるのと違い、エッセイの場合はすでに現実で起こったことを、著者の視点から追体験するという読まれ方をされるのが普通だと思う。
しかしこの本のエッセイは、前述の理由により時間が相対化されてどちらかというと小説的な読み方をしてしまうようになっている。
僕は、豊島さんの作品の中に流れる、よく使われる「ヒリヒリした」感覚の正体を、すでに体験したことを自分の中で再生するときに欠落させてしまうということに対する悲しさ、あるいは喪失感だと思っている。
つまり、ある体験をしたときに考えたことや感じたことをは、その体験を後日思い出したときに完全には再現できない。
あるいはもっと直接的には、体験したこと全てを思い出すことはできない。
再生される体験は、完全に映像として再生されるのではなく、印象として、あるいはある印象的なエピソードに象徴される形で、再生されるに過ぎない。
どんなに印象的な一時間を過ごしたとしても、後日思い出せるのは、時間にすれば一分程度の断片的映像的なダイジェストとしての記憶と、その体験を終えた後に、体験中に感じた印象を集め、再構築した印象に過ぎない。
多くの印象や映像は忘れられ、そしてそれを思い出すことはほぼできない。
その忘れられたものに対する喪失感が、豊島さんの文章には散りばめられていて、それが「ヒリヒリ」の正体なんじゃないかと思う。
拾い上げられて散りばめられた、その喪失感を拾い上げることで、僕たちはそれが存在していたということには気がつけるのだけれど、しかしそれは所詮喪失感でしかない。
失ったもの自体でない以上、ただその喪失を嘆くことしかできない。
単に今思えば楽しかったことを書いた「ほろ苦い青春エッセイ(裏表紙 より)」以上であるのは、文章が全体としてエピソードを面白く書きながらも、その当時の気持ちを今の気持ちで上書きしてしまうことへの危機感が全体に表れているからではないだろうか。
今思えば楽しかった、というのが事実であったとして、そのネガを通して過去を再評価することへの不安・不満、そうすることで失われてしまうものへの危機感。
それは、『夏の終わり』に描かれた元同級生の死と、そのことに対する思いがあるのではないかと思う。
一緒のクラスにいても、ほとんど何も思い出が無いその元同級生のクラスでの位置と、今の自分が重なること。
豊島さんの作品を通じて感じられる「ヒリヒリ」の一つの原点は、このエッセイの中に在るのではないだろうか。

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不登校経験者(中学生の時だけど)としては、なんていうか無駄に感情移入してしまうような部分もあって、とてもおもしろかった。
高校時代、みんながみんな楽しそうだった女の子も、同じようにいろいろ悩んでたんだと思うと安心できた(笑)

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