責任転嫁の気持ち悪さ

吐き気がするほどに気持ちが悪いとしか言いようがないのが、「健全」という言葉だ。
東京都の条例改正に絡んで毎日のように見るようになってしまったこの言葉に、どうしようもない気持ちのわるさ、不気味さを感じざるを得ない。
そもそも「健全」とはなにか。
デジタル大辞泉(別ウィンドウで開きます)の「健全」の項によると

[名・形動]
1 身心が正常に働き、健康であること。また、そのさま。「―な発達をとげる」
2 考え方や行動が偏らず調和がとれていること。また、そのさま。「―な社会教育」
3 物事が正常に機能して、しっかりした状態にあること。また、そのさま。「―な財政」

(斜体部分引用)
だそうだ。
が、世間的に言い換えれば、「青少年の健全さ」とはコントロールしやすさに他ならないのではないか、と思っている。
つまりコントロール側(親あるいは社会的なもの)が考える「正常さ」の枠のなかにあることを「健全」と言っているだけなのだ。
子供を枠に捉えようとする事自体をすべて否定するつもりもないし、社会としてルールは必要であるから、当然にそれを教えることはしなくてはならない。
しかしそれはあえて強めの言い方をすれば、「必要悪」として行われなければならないのではないか。
数年前に、子どもが「死んでも生き返る」と思っているということが問題になったが、個人的には二つの点でそれを問題にして正常ではないと判断することが滑稽であった。
ひとつは、子どもが真面目にそれを考えているのかどうか、あるいはどういう文脈でそういう回答になったのかがはっきりとしないのに、あたかもゲームやアニメのせいで「現実で死んだ人間も、生き返ることができる」という意味で言ったかのように扱っていた、受け取っていた人が多かったと言う点。
もうひとつは、結局宗教的な輪廻転生や極楽あるいは天国、もしくは地獄などの思想と、死んでも生き返るという表現に差異が認められないにも関わらず、一方でスピリチュアル的な番組をもてはやし、地獄に堕ちるというような表現をする占い師をもてはやすかのごとくマスコミがさわぎ、多くの大人がそれに便乗した点である。
子供は、ある程度の年齢になれば、大人が何を自分に期待し、なおかつその期待に素直に答えることが必ずしもかっこのいいことではないと思うは、反抗期的な行動を見てもあきらかだし、経験的にもわかっているはずだ。
にもかかわらず、子どもがゲームなどによって歪んだ世界観をもっているとし、つまり子どもたちは何も割っていない存在であり、「きちんと」教育をしなければならないという考え方を表わしていた。
そして、自分たちが信じているもの、宗教的な思想やあるいは(僕個人としてはアホらしくて見るに耐えない、耐えなかった)スピリチュアルブームのようなモノを賞賛し、あるいは現在にいたってもパワースポットのようなものをありがたがっているのは、不気味だ。
もちろん、社会が全体としてスピリチュアルブームに飲み込まれたわけではなく、本当に熱心なのは一部だっただろうし、子どもたちのなかの一部は本当に死んでも生き返れると(転生的な意味ではなく、現在の自分として)思っていたかもしれないが。
今回の都条例改正にしても、根本に透けて見える「俺たち(私たち)大人は、何が正しくて健全かをわかっていて、子どもたちはそれがわかっていないから保護しなくてはいけない」という思想、つまり子供はコントロールされてしかるべきだということがある。
なぜそう思ってしまうのか。
年長者が年少者よりも優っているのは、つまるところ経験でありそれから来る思慮深さなどと、社会的な地位である。
たしかに50歳の人間は15歳をすでに経験し、なおかつその後35年間を過ごしてきたという点においてアドヴァンテージがある。
50歳の意見と15歳の意見では、個人差はあれ平均すれば前者の意見のほうが思慮深く優れているだろう。
問題は、しかし35年という時間の流れを考慮しなくてはいけないということと、過信を持ってはいけないということだ。
単純な世代論に落とし込む気は毛頭ないが、年齢が離れれば離れるだけ、価値観は変わってくるのは当然だし、そもそもの思想の基礎部分自体が相当に食い違い、つまりお互いの常識がかみ合わないことはむしろ当たり前だ。
環境も違えば教科書だって違うし、それぞれの世代にはそれぞれの共通体験があり、たとえ同時間にある事件が起こったとしても、その捉え方は世代によってやはり違う。
50歳にとって当たり前の理屈でも、それが15歳にとって当たり前の理屈かどうかはある種の冒険であり、それを常識という言葉で強要することには無理がある。
特に、宗教的な思想の基礎がない日本で、80年代にどこに存在していたかということは、非常にその世界観に影響を与えているように思える。
その意味で断絶していると思った方が(かなり過剰な言い方だとしても)、スマートに相互理解が出来るのではないか。
逆に言うと、同じ思想がどこまで確保されているかということの確認が、結局常識のお躾や道徳教育的なもののおしつけでなされてしまうような状況、そしてそれが多い描くせていないものから目をそらしながら安心した振りをしていることに落ち着いてしまっているのでは、誰のことを議論しているのかわからない「若者論」という空回りを続けることになるだけだ。
ケータイのフィルタリングにしてもそうだが、そもそも「健全」な親子関係を築けていれば「こういうのはダメ」で済む話ではないのか?
そこから目をそむけ、「失敗」の回収のために敵を想定してバッシングするやり方は、仮に成功したとして次の敵を探してバッシングする無限の運動を展開する中にはまり込むだけではないのか?
教育の「失敗」を今の親世代に押し付ける気はない。
つねに社会的な流れがあって、結果そうせざるをえないことの方が、個人でできることよりも大きいと思うからだ。
しかしその流れにのったままでいいのか?
常々思うんだけど、どうして現状を自分が常識だと思う方に変えなければいけないの?
今ある新しい流れを上手く使っていくことが、一番コストもかからず、逆流もしなくていい方法なんじゃないだろうか。
個性を伸ばすってそういうことで、社会的に役にたつ有益に見える部分だけを伸ばすことじゃなく、いまあるモノを大切に、そして最低限人間社会で生活できるように教育することだだと思うんだけど。
どんなに善意があったとしても、それが結局その人の思う「健全さ」の押しつけであるのであれば、それは偽善にしか見えないんだ。