女性性器切除と文化

昨日(10年3月18日)の朝日新聞の国際欄に女性性器切除に関する記事があった。
『女性性器切除 廃絶へ一歩』という見出しで、ソマリアの北西部ハルゲイサでの廃絶運動と、男性側の意識、そして女性性器切除(FGM)についての基本的な説明が内容だった。
FGMという文化(これを文化といっていいのかどうかについてはひとまず置いておく)は知っていたけど、不勉強で、クリトリス切除のことだと思っていた。
しかし実際には、
クリトリスと小陰唇を切除
クリトリス、小陰唇、大陰唇全てを切除した後に小さな穴だけを残して縫合する
というやり方があり、しかもこの二つが大部分を占めているらしい。
目的は「純潔や貞操を守ることが目的」で、「性器を切って性感を失わせることで、性的よ急を抑える」ためらしい。
上記の文中斜体は新聞から引用だけど、以下にウィキペディアからも引用する。

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大人の女性への通過儀礼
結婚の条件とされている。
結婚までの純潔・処女性の維持を保てると信じられている。
女性の外性器を取り去り性感を失わせることで、女性の性欲をコントロールできると信じられている。
ソマリアでは、「女性は二本の足の間に悪い物をつけて生まれた」と言われており、陰部封鎖させる。

引用終わり

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たしか最初に女性性器切除を知ったのはテレビだったんだけど、たぶんテレビだったから方法についてクリトリス切除の話しかしてなかったんだと思う。
それくらいエグイ話だ。
前述の新聞記事では、実際に大陰唇まで切除された女の子の話が乗っていたけど、術後七日間は横になったままで、排泄をするのにも具合が悪いとか。
また、性交には苦痛が伴う、難産になるなどの問題も解説されている。
もちろんクリトリスの切除という時点で、酷いと思ったのだけれど、実際に行われていることがそれ以上にひどいことだったと言うのはショックだ。
女性性器切除(FGMという言い方は、なんていうか問題に対してソフトすぎる言葉だと思ったのでこっちを使う)が行われている地域では、「文化風習だ」という反発も強いらしい。
文化の問題でいつも思うのは、はたしてどこまでが許容されるのかということだ。
文化をどう定義するのか、という問題、あるいは人権はどこまで介入出来るのか、つまり近代的な価値観はどこまで介入出来るのか。
知識的な問題も多分にあるのだろうけれど、それだけで合理化できるわけではない。
文化・風習は歴史的な積み上げが大きくて、これはいろいろと重い。
過度に関わってしまえば、それは文化的な帝国主義だという非難を当然に受けるし、かと言って放っておくことはできない。
啓蒙というような形ではなく、選択肢として様々な知識を伝えていくということが一番バランスがとれるのだろうけど、それで結果が得られるのか、そして仮に得られたとしてその間に何人が悲しい思いをし、あるいは亡くなってしまうのか。
僕は明確な被害者がいない限りにおいて、感情的な抑圧を排除して多様な文化を維持するべきだと思っているけれど、この問題については明確な被害者がいる、ように見える。
ただ、その被害者が、僕という日本に住む近代的な価値観(この価値観がそれ以外の価値観に優位しているとは少なくとも積極的には思っていない)を持った人間という立場から見たものであって、それに絶対的な正しさを感じることはできない。
女性性器切除をされた、されそうな女性が自分が被害者だと思えば被害者だと言えるのだと思うけれど、しかし彼女たちを受け入れる社会がないままでは、その場所に被害者として、あるいはそうされない権利があるものとしていられない。
どうすればいいんだろう……。
仮に強制的に彼女たちを守ろうという人がいたとして、僕はそれを支持することができない。
ほんと無力で役に立たないな。

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ウィキペディアで参考文献に挙げられていました。
ちょっと読んでみようと思います。
アフィリエイトなので、気になる方は『ドキュメント女子割礼 集英社新書』で検索してみてください。

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追記:10/3/21
↑の本を読んだ感想をアップしました。
http://d.hatena.ne.jp/suna101/20100321/1269156431