ぽろぽろドール
豊島ミホの『ぽろぽろドール』を読んだ。
人形の登場する短編六本の連作。
昔、等身大のドールのサイトにはまっていたことがあった。
等身大のドールの写真に、その持ち主の会話形式の文章が添えられているサイトだった。
一般的には、たぶんあまり受け入れられる分野じゃないのだろうとは思っていたけど、そのドールと、会話文のドールの台詞はぴったりだった。
最近特に思うのだけれど、観念的な意味で生物と非生物の差というのは主観の問題なんじゃないだろうか。
僕はそのサイトを見ていたとき、確か中学生だったと思うけど、道ばたですれ違う人よりもそのドールの方がリアルだった。
彼女は(とあえて言うけど)たしかに僕の主観の世界ではどこかにいる生きた人形として存在していたし、その世界には動く人間というカテゴリーに含まれるモノもたくさんいた。
これは実はいまでもあまり変わっていなくて、知らない人よりも知っているモノの方が、ずっと生きているような気がしてならない。
実際にはそこまでのモノを持っていないからあくまで例えになるけど、知らない人の命を助けるために命ははれないけど、本当に大切な、客観的には生きていないモノを助けるためになら命をはれる気がする。
そしてそれはたぶん人の形をしていた方が思い入れが強い。
それは結局これまでの経験から、生きるということのリアルに説得力があるのは生命を感じさせる形のモノだけだからという思いがどこかにあるからだと思う。
だから僕は人形も、動物の形をしたあらゆるものも、その形を写真にしたモノや絵にしたモノも怖い。
僕がいつ彼らを生きている存在にしてしまうかわからないし、そうすることでそれらをモノとして扱えなくなるから。
そして、自分で彼らの意志を想像してしまうから。
自分を含む他人というのは欲求の対象であり、その対象の代替品が人形なのだと思う。
だから様々な、他人に向けるような想いを、あるいは自分に向けるような想いを人形に向けるのではないか。
本来人に向けられるべき想いが人形に向けられているのを客観的に見たとき、それは妙にエロティックだ。
背徳的で隠微な香りがする。
それは直接的に性的なモノを喚起しなくても、どこかただよっている。
人と人の関係では慣れすぎていて感じられないだけで、それを記号的に表現することで返って浮かび上がってくるのかもしれない。
この本で描かれる主人公達は誰もが何かを欠いていて、その気持ちはストレートに人間には向かっていないように見える。
そこが悲しくて、そしていい。
何かの代わりを何かの代わりにさせる。
この本に収録されている短編は、特別おもしろいという訳ではない。
けれど、たぶんなぜ人形なのかということには完璧に答えている気がする。