三が日の過ごし方

 三が日は一歩も外に出なかった。いや、ベランダには一回出たので、家の敷地(マンションでも敷地で合ってる?)の外には出なかった。というか屋根の下から出なかった。とにかく靴を履かなかったし、サンダルを履いて玄関を出ることもなかった。
 駅伝、読書、ネットという、the寝正月だったわけだけれど、なんだか妙に青春ぽい小説とマンガを読んでしまったので、年始から死にたい気分になった。死にたいといっても、ネガティブな意味ではなく、寧ろポジティブだとすら言ってもいいかもしれない。巻き戻せないならぶっ壊せ!というエネルギーだと思ってもらいたい。
 まあ、女子学生ばっかりやたらと出てくるので、私の人生を巻き戻したところで戻ることはできないわけで、やっぱり人生からダイブするしか体験するには可能性がないわけだ。しかも体験することと読むことは当たり前だけど違うわけで、「こんな青春をおくりたかった」と言ったところで、それは根本的に不可能だ。見るようには体験できない。
 とはいえ学園祭の準備とかもう一度してーなーちくしょう!とは思うわけで、授業サボって屋上でぼーっとしてーなーと思うわけで。自分の出来なかったことをしているキャラクターになんだか思いを託しつつ、でも「そんなことはできない」し「いつか大人にならなきゃいけない」なんて誰に向いているのか分からない説教をホオリ投げたりして気分を調整しないと辛い。しなびた温泉宿に逃避したい。軽い気持ちで心中したい。

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 なんだかほとんどお正月気分がしないままお正月が終わってしまいました。年賀状も来ませんでした、喪中だし送ってないし。年々年賀メールを送ることも少なくなって、今年はTwitterをつかってみたいりしましたが、まあ面倒くさいので来年はたぶんしません。いや、気が向いたらしますけど。

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 吉川トリコさんの『夢見るころはすぎない』という短編集を読んでいたら「そこからはなにが見える?」という、高校二年生のときに未来の自分に宛てた手紙に関する話があって、小学生の頃に親しかった友人と二人で埋めたタイムカプセルのことを思い出しました。当時住んでいた団地の自転車置き場の裏に埋めたのですが、もう十数年も前のことなのであるかどうかわかりませんが。しかも今住んでいるところから遠いのでとても確かめに行くこともできません。ただ、その中に自分宛に書いた手紙があった気がするのですが、短編の主人公は自分の書いた手紙の内容を覚えているのですが、私は全く覚えていません。
 まあ高校生と小学生では書くこともぜんぜん違いますから、私が書いたのはどうせくだらないことなんでしょうけど、もし今でも埋まっていたらいいなと思ったりします。友人とはもう連絡がとれません。お互い引越しの度に連絡していたのですが、いつの間にか音信不通になってしまいました。
 仮に残っていたとして、掘り出して読んだ瞬間に、いろいろなものが一瞬で集結して、それまでの色々な者がまとまってくれると同時にまとまってしまうので、たぶん残っていないけれど、それを確かめないのが正しいタイムカプセルの手紙の在り方なのかななんて思います。