とりあえず頭を冷やす

小学生の頃、普通のサラリーマンにはなりたくないと思っていた記憶があるけれど、「普通のサラリーマン」なんて職業が無いことは、中学生くらいになれば分かっていた。
それでも、何か少しでも特殊な職業との比較で、まだそのイメージは残っていたけれど、比較するということの無意味さに気がついてしまえば、「普通のサラリーマン」も「普通のサラリーマンではない社会人」も、結局さしたる差はなくて、それに見合った努力ができるか、運と才能があるかということを天秤にかけたときに、そして理想化しているそれの現実は理想と重なっているだろうかと疑いを向けざるを得ない本当に特殊な立場もまた、手が届かないという意味では無意味化してしまう。
やりたいことを、それこそ文字通りにひねり出してでもおけば良かったのかもしれないけれど、大した動機もなく作り出した、フェイクのフェイクみたいなやる気は、結局長持ちしないだろうと、作る前から思っていたし、結果としてそのとおりだった。
「誰がやっても同じこと」を「私がやっている」、ということは、『「誰がやっても同じこと」を「私がやっている」』という偶然によって、固有化されている気もするのだけれど、しかし隣でほぼ同じ作業をしている誰かもまたその偶然によって固有化された『「誰がやっても同じこと」を「私がやっている」』ことをやっているのだから、絶対的・内面的なものがない状態では、比較してしまって『「誰がやっても同じこと」を「私がやっている」』偶然によって固有化された、けれどもとなりの誰かとほぼ同じものでしかないと思ってしまう。
頭を使わない単純労働は好きなのだけれど、そこに意義とかを持ち込んでしまうと、とたんに無意味という意味を持ってしまうので、考える暇のないことをしなくてはいけない。
例えば、ある著名人の地位と名誉が、その人でなければならなかったのかどうかを確認するすべはなくて、たまたまその人がその地位と名誉によってその著名人として今広く知られているだけなのかもしれないと思えば、どんなに特殊な人であっても代替可能であるとも考えれるけれど、結局確かめるすべもなく、そしてなにより現実的な問題として、彼あるいは彼女は彼女であり、そしてその著名人として特殊だと思われているのだから、そうなのだろうと納得するしか無い。
有利な条件に見えるなにかで、何かを得ている人をうらやむのは簡単だけれど、建設的なのは眼を向けるべきはその人が、その条件のおかげで手に入れられない、それ以前に気が付きもしないまま通りすぎてしまっているモノ、そして自分がそれを手に入れられる可能性のあるモノがあるという事だと思う、ようにしている。
ある人に言わせればそれは「諦め」らしいのだけれど、諦めずにもがくことや、あこがれや妬みを表現することに美学を感じるかどうかは個人の趣味の問題でしかないし、僕はあまりかっこいいとは思わない。
ところで、あの頃、僕は一体どんな職業につくことを「普通のサラリーマン」と対比させていたのだろうか、ということがどうも思い出せない。
自分が何でもできるだなんて、そんなことは多分考えていなかっただろうけど。
少なくとも今の状態が、その時に考えていた状態にかすりもしていないことだけはわかるのだけれどw 間に合うのであれば、それが思い出せればそれを動機にしてなにかいろいろやりたいな、なんて思うんだけど、もう多分思い出せないんだろうな……。