惡の華(押見修造、講談社コミックス):感想

しばらく更新できません。
なんて言っておきながら、少々時間があるので更新。
明日からは最大で1週間程度、忙しい上にネットのできないところに行くので、おそらく更新できません。

                  • -

kouさんブログで紹介されていた惡の華」を読んだので、思ったことなどをまとめずに書いておきます。
(上記+同じくkouさんのブログの2月14日の記事を読むことをおすすめします。僕はそれでこのマンガを読むことにしました)
まとめようとしたらなにかものすごく変なことになったので、感想ダダ漏れで。
以下ネタバレ注意

思春期の少年少女を主人公に、その時期の葛藤のようなものを描く作品を見た時に僕が思うのは、彼らはどうしてこんなに真面目なのだろうと言うことだ。
それはキャラクターそれぞれに違うけれど、例えば根拠がないのに自分が実は凄い奴だと確信していたり、絶対的な悪だったり善だったりへの確信だったりする。
そして自分の中の「負」の感情をどうするのか、あるいは「正」への欲望をどう処理するのかということを悩む。
惡の華』の仲村さんは、自らの中のドロドロとしたものを春日くんに体現させることで満足しようとし、佐伯さんは迷える子羊のような春日くんを救済することで正しさへの欲望を満たそうとした。
それらは絶対的であるはずなのに、常に反映させる何かが必要で、3巻の最後で自ら告白するように、「空っぽ」で、そして彼女たちの欲望を映しうる程度には頭のいい春日くんはそれに適していた、のだと思う。
春日くんがどちらをも選ぶことができなかったのは、二人の自分に向けているものの本質が同じであり、なおかつ外見では勝る「善」の慈悲が、プライドが高い彼にとって無慈悲であるのに対して、「悪」の無慈悲は対等であるという優しさがあるからだ。
佐伯さんには負い目を感じてしまうけれど、仲村さんとは対等でいられるということ。
「空っぽ」である前の、プライドの高いけれども実はただの思春期の少年である彼にとって、そのどちらかを選ぶことはできない。
そして「空っぽ」になってしまえば、もはや彼が選択するという主体的な行動をとることはできない。
諦観が空白をある程度満たすまでは。
そして個人と社会とのかかわりで言えば、圧倒的に個人が強くて、社会というぼんやりとした周辺に対する想像力の欠如。
逃げ出すということが、大人からすれば単にその場しのぎでしか無いように見える「山の向こう側」という場所に行くことであったとしても、そこにリアリティが感じられてしまう。
思春期を通過するということは、おそらくそれは社会の中にいる自分という、それまで絶対的であったはずの自分を相対的に見るようになることだと思う。
社会の中で相対化された自分というのは「空っぽ」だ。
環境によって翻弄され、「本当の自分」というものが幻想であると知り、そしていつの間にかそのことに慣れてしまう。
かつて自分の中にあったはずの「善」も「悪」も「絶対」もなく、ただ比較だけが自分のいる場所を一時的に示してくれるだけになる。
春日くんが「絶対」を捨てたとき、同時に彼に自らの内の「善」「悪」を反映していた佐伯さんと仲村さんも、それに気がついてしまう。
どこかに行けたはずなのに、もうどこにもいけない。
行けたはずの場所は、気がつけば全く同じ風景の、しかし全く違う場所に姿を変えてしまう。
思春期を経ることによって、自分の中の絶対的なモノがなくなり、そして漠然とした「どこか」も消失してしまって、ただ広い空間に取り残される感じ。
やがて「利己的な理由」と「言い訳の山」で作られた代用品、そして具体的な社会の内の場所に満足して、周りの緩やかに固定された環境の中に自らを位置づけ確認するようになるということ。
これらは単に同一のものを別の視点から見るに過ぎないのかもしれないけれど、しかしその視点の変化はあまりにも大きい。
惡の華』は、自分がかつて失ったものとその過程をあまりにも鮮明に物語化されているように思えて、すごく息苦しいけれど、この先3人がどうなってしまうのかがすごくきになる。
はやく続きが読みたい。