今日は雨が降ったけど、明日は寒いらしい@札幌

もしかすると地方によってはもうそろそろ春めいてきているのではないかと思う。
こっちは、今日は比較的暖かかったけれど明日は寒いらしい。
春というとなにか楽しい雰囲気、というイメージが喧伝されるけれど、父親の転勤が多かった私にはあまりそういう感覚はない。
春風というイメージでも、その暖かさよりさきにそれが運んでくる砂のにおいと乾いた感じが頭に浮かぶ。

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小学生くらいまで、夜に外出することはほとんど稀で、電車やバスの窓から夜の景色を眺めるというのは、大抵の場合どこかに観光に行った帰りや祖父母の家に遊びに行った帰り、もしくは引越しの日だった。
窓越しに見える夜の景色は、昼間とは違って細部が見えない。
奥行きがあるのに、一方で見方によってはほとんど平面にも見えてしまうことがある。
その次元の不安定さに加えて、社内の景色が窓に映り、二重写しになった風景の中に自分がいるという感覚は幻想的で、その景色を見ているときの、普段とは違う場所から日常へ、あるいは日常から別の見慣れない場所へという心情あってか、妙な高揚感と漠然とした寂寥感があった。
例えば夜新幹線に乗って、東北に住んでいる祖父母の家から東京に向かうとき、進行方向と反対側を向いた席から見える、普段とは逆に流れる夜の景色とその中に浮かぶ車内、疲れて寝ている親や兄弟、そして窓に写ったそれらを見ている自分という風景が起こす軽い吐き気は、単なる乗り物酔いだったのだろうか。
あるいは、引越し先の最寄りの空港から、最寄りの駅までの電車の中で見える知らない街の細部が見えない漠然として奥行きがあり、それでいて平面にも見える夜景と、それを見ている自分という、窓に写った風景。
乗り物が向かっている先もまた、その時見ている外の風景と同じ場所に属していて、そして自分もそこに降りるのだということの不思議さと、自分がそこにたった瞬間に、単なる風景から一瞬にして幻想が剥がれ落ちて、細部まで見えてしまう周囲がある一方で、変わらずのその周囲の外側には漠然とした幻想があって。
でもその幻想も、朝になってしまえば消えてしまうのだけれど、そしてまた夜が来ても一度細部を見てしまえば二度とはもどってこないのだけれど、そしてそんなことは分かっているのだけれど、どうしても自分とそこが同一の次元にいるとは思えない。
もしくはそんなに大げさな移動ではなくても、母親と街に買い物に行って、夕方にデパートの地下でお弁当を買ったあと、薄暗い地上に出たときの、子供の身長くらいの高さから見る雑踏の雰囲気。
そんなものが恋しい季節ですね。