実感がないという問題と情報だけで悲しいということ

昨年から体調を崩していた父方の祖父が亡くなったとさっき知らされた。
今年に入ってから特に調子が良くなかったようで、父と母は、そして僕もある程度は覚悟をしていた、と思う。
先週からは頻繁に祖母から連絡が来ていたから、あまり何も聞かされていない弟もたぶん気がついてはいるだろう。
身近な人の死、という意味では、4年前に母方の祖父が亡くなっている。
親戚という枠を外せば、大学時代の友人が一昨年亡くなったらしい。
それ以上遡ると、10年以上前に叔父が亡くなったのが一番古い。
幸運なのかどうかはわからないけれど、これまであまり周りで人が死なないような生活を送ってきたせいか、あまり人が死ぬということに対する実感がない。
それぞれの時にそれぞれの受け止め方をしたし、わりと色々と考えることもあったのだけれど、基本的な部分でよくわからない。
おそらく知らないだけで、これまで人生で知り合ってきたそこそこの数の人達のなかにはすでに亡くなっている人がたくさんいるはずだけれど、僕はそれを知らないから、生きていることになっている。
ある人が死ぬということは、僕にとって、あるいは個々人にとって、そのある人が死んだという情報を知ったという事だ。
もしその情報に対してリアリティを感じられなければ、なんというかひどく宙ぶらりんになる。
祖父が亡くなったことは事実だろう。
けれども仮に遺体を見たとして、僕はたぶんそれを信用することができない。
それは祖父の死が納得できない、という感情的な問題とは違って、本当に単純に、目の前にあるリアルなはずの情報、あるいは伝聞でだってリアルであるはずの事実、特に生き死にという絶対的に現実的であるであろうと思われるはずのことに対して、リアリティを感じられない。
というよりも、普段意識していないだけで、「現実の日常生活で何かにリアリティを感じているか?」という冗談みたいな問を自分に向けないだけであって、考えて見ればむしろリアルな物、現実なものがどれだけあるだろうか。
「世界中では3秒に一人が〇〇で死んでいる」みたいなことを言われても実感がわかないように、知らない人とは比べものにならないくらいに知っているはずの人なのに、なんでこんなに他人ごとなんだろう、と常識的に考えたりもするけど。
なんてことを言うとマンガの読み過ぎとか、ネットのやり過ぎとか言われるんだろうな。
逆に、フィクションでは悲しくなったり、現実的な喪失感があったりするのに。

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こんなことをブログに書いたり、明日は普通に仕事に行くことになっている(葬式と通夜には当然出る)あたりに、いろいろなことを考えないではない。
祖父は祖父の属した価値観の中で行われる習慣で送り出されるべきだし、送り出す側も本当であればそういう心情で、それがむりならせめてそれに従順であるように取り繕うくらいはするべきだ、と思う。
信仰がなかろうが、死というものに対する感覚が違おうが、そうするしべきだ。
それ以外にさんざん世話になった祖父に恩返しをするようなことはできないし、けれどもそんな事じゃ全然返せるわけもないのだけれど。