個人間のコミュニケーションについて

ここ一年くらい、親しい人と以外のコミュニケーションはもっぱらネットでしていたせいもあってか、現実のコミュニケーションに少々戸惑うことがあった。
と言っても、基本的にはネットだろうとリアルだろうとさして変わることはなくて、頻繁にコミュニケーションする必要がある人とはするし、する必要のない人とはそれなりにだったのだけれど、例外的なこともある。
力関係がほとんど関係しない場合、コミュニケーションは双方の了解に基づいたもので、ギブアンドテイクが基本だと思う。
一方が他方から時間などを一方的にとるとき、それなりの力関係がないばあいは、関係性を保つメリットが搾取される側にはない。
SNS等でのオープンなコミュニケーションと、個人間のクローズドなコミュニケーションとの違いの一つは、コメント/返信の必要性の強弱だ。
Twitterのつぶやきや、mixiの日記などは、基本的に読んだからといってメッセージを残す必要はないが、個人的なメールは返信が(明示されないにせよ)求められていることが多い。
単純な連絡のメールではなく個人的な内容が含まれている、また携帯とPCのメールでもその必要性や速度なども変わるだろうけど。
全くの日常的な会話を携帯のメールで頻繁にする事自体を否定するつもりはないけれど、それ自体相当の時間と労力を使うことを考えると、お互いにメールすることに対して了解していることは必要だろう。
これははっきりと確認しておいたほうがいい。
一方的に相手の時間と労力を搾取している可能性がある。
必要性の低いコミュニケーションは娯楽であり、相手をそれに巻き込んでいるという自覚は常に必要だろう。
(とはいえ「必要性」の定義が難しいが。関係性の維持コストをどこまで払うのかということの感覚が異なれば、当然必要最低限のコミュニケーションも様々になるだろう。
了承した上でのコミュニケーションのためのコミュニケーション(例えば仲間内での飲み会など)は、内容自体に必要性がなくても、それ自体が関係性の維持コストと考えられる。
また今後の投資としてのコミュニケーションも、現在では必然性がなくても必要性はあると考えられる。)
その人以外に話す必要がなく、時間的・空間的にもその時間・場所でなければいけないわけでもなく、了承もない、心情の発散は、せっかくネットが発達し、様々なサービスが無料でも有料でも多様に準備されているのだから、そちらでオープンにやるべきだ。
そこにレスポンスがあるかどうかは、その内容にかかっているのだから、欲しければそこに労力をかければいい。
もし対等なコミュニケーションを望むのであれば、相手に常に自分とのアクセスについて選択する自由を提供するべきだ。
ツールの選択は、ときにその選択を勝手に決定してしまう(あるいは、半ば強制するようなメタメッセージを含んでいる)ということを頭に置いた上で、行うべきだろう。
もちろん内容も含めて。