それは「あなたの中の」でしょう

たまに「子どもにしかできない表現」みたいな褒め言葉(?)を目にするけど、これが僕には全然信用ができない。こういう言い方をするのは「大人」で、子どもではない。あなたの言う子どもって誰なのと思う。というかそれは褒め言葉なのか?
文章の稚拙さや語彙の少なさとかを必死にカバーしながらした表現だったり、鋭く(見える)描写だったり、その対象はいろいろあると思うけれど、それは評価する側がそう思いたいだけなのではないかと思う。どんな文章だって解釈の仕方一つで批評性を持ちうるし(それが妥当であると判断されるかどうかはわからないけど)、あるいは示唆にとんだものになりうる。完全に読みが統一された文章が書き得ないであろう以上、一定の共有された評価の枠組みの内部に入り得るものならばそのようになる。小説の「あとがき」や「解説」が、時に数百ページの物語をあっさりと超越してしまうように(それらによって物語が解釈される、意味が決定されるように)。
「子ども」や特定の誰かが書いたという背景を完全に抹消して文章を読むことは殆どないし、どうしたって一定程度のバイアスをかけてしまうのは仕方が無いにしろ、そこにそのバイアスを元にしたプラスの評価をして公表することは、特に子どもの書いたものに対してはどうなんだろうか。果たしてその背景が文書そのものに還元されているのかどうか、ということもあるし、評価する人間自体の背景に対する思い込みやイメージが過度に評価に影響しないのか。
ホメるなとか、大人と同基準で評価しろとかが言いたいのではなくて、「子どもらしい」「このころにしか書けない」っていう表現がプラスだと思っているのは評価する側だけなんじゃないだろうか。子どもの頃、自分が書いたものを「子どもっぽくていい」「その歳にしてはすごい」ってほめられるのはあまり嬉しくなかった。全然それってその人固有のもの評価しているわけではないだろう、と。
背景に大きく依存した評価は、「自分は彼らとは違うけど、彼らのことはわかってる」ということの表現なんじゃないだろうか。子どもではないけど、「大人」だけど「子ども」のことよくわかってますよアピール。殆どの場合無意識だろうけど、安易にそういう表現はしない方がいいのではないかと思った。
(相当の自戒を込めつつ)

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