メモ

特定の事実に関してではないが、感情だったり思いだったりは時間の流れの中において後のものであるほど優れているのかというと必ずしもそうではないような気がする。
僕は小学生の時の自分の考えは幼稚だと思うけれど、しかし幼稚な考えと、今の(それが幼稚でないという保障はないにしろ比較的)大人の考えを比較したときに、後者が優っているとは思っていない。
評価者が誰であるかという問題でもあるし、評価時がいつであるかという問題でもある。
時間性をある程度無視したときに、Aという地点と、時間的にはその後のBという地点の感情のどちらが優先されるべきかということに、明確なものはない。
ある地点Cにおいて、仮にBの地点の感情が優っていたとして、しかしそれが正しいとか、評価されるべきであるわけではない。
オートマティックに、Aでの感情が引き起こす行動を実行するよう設定したとき、ある地点Dにおいてその感情が変わっていたとして、その設定自体をひっくり返しうる可能性があったときに、感情の持ち主である誰かがそれをひっくり返さなかったということをどう考えるべきなのか。
ひっくり返しうるオートマティックに実行される行動のキャンセルの可能性は事例によってまちまちだろうけれど、設定自体はAの段階でその可能性をある程度考慮していると思われる。
実行されてしまったことに対して、その地点ではAでの感情と別であったということがわかったとしても、Aではそう思っていたことはそこに残り、時間の経過と価値の上昇が比例しないのであれば、そこに何か問題があるのだろうか?
等価である以上、どの地点の感情が優先されるかを決めるのは外部要因なのかもしれない。
また、そもそも引き起こされる行動の評価という問題もある。
しかし引き起こされる問題を、評価することは出来るのか。
個人的にそれは(根源的には)不可能であり、社会的な文脈に回収され、その中での評価に落ち着いてしまう。
それ自体を否定する気はもちろんないのだけれど、もう少し根本に目を向けるようなことをした方がいいのではないか。
つまり土台を固めない議論は、結局のところ破綻を抱え込んでいて、しかしそれを見ないようにしている。
ウソというのとは違うかもしれないけれど、突き詰めれば簡単にわかるような薄いもので大ってしまっても、透けて見える破綻を不可視化することはできない。
おなかがすいたのでアンパンを食べる