微妙な天気と温度ですよ

なんというかぬるい。
暑いではなく、ぬるい。
暑くないかといえば、暑い。
暑いのだけれど、しかし本州の人に言えば怒られる程度には涼しい。
そして湿気もないとは言えないが、それほどない。
チャリを30分こいでも、それほど汗ばまない程度の気温。
しかし室内に入ると汗が少し出る。
昨日、一ヶ月ぶりくらいに蝉の鳴き声を聞いた。
ただそれだけ。
某百合ライトノベルを再読しているのだけれど、思った以上にいろいろと思うことがある。
まだ完結していないのでなんとも言えない。
けれど、抽象的に言うならば、本来あるべき秩序を守ろうとするのは周囲であり、それを打破するのはおおよそ主人公なのだ。
そのカタルシスこそが、このジャンルにおける魅力の一つであると思う。
常識を、なんらかの力によって超越し、結果なにかを手に入れる。
しかしもし、主人公だけが常識に縛られていたとしたら?
いや、それどころか、カタルシスを感じるべき秩序の再構築と破壊というプロセスに置いてのみ非常識であるとしたら?
それはもはやこのジャンルの既存のルールからやや外れたことになってしまうのではないだろうか。
ジャンル的な問題に関しては、大きく分けて二つのルートがあって、あるいは三つなのだけれど、物語とリアル、そして両者の中間的な形としての世界がある。
物語はたいてい、カタルシスを別の部分に求める。
リアルはカタルシスなど求めはしないか、リアルな求め方をする。
中間的な形としての世界は、紋切り型のカタルシスを得ることを目指す。
しかしこれもまた常識的な分類にすぎない。
そもそも、ジャンルとはあくまで概要の把握であり、それをひとくくりに語ることは、中心的な核のみを語っているように見えて、実はそれすら語れていないのではないだろうか。
たとえば、たいていの物語は異性愛をなんらかの形で内包している。
むしろしていないものを見つけるのが難しいだろう。
しかしそれらを「異性愛モノ」とまとめることはおおよそ不適切だ。
ミクロに視点を合わせ「不倫モノ」としたとして、結局は同じだ。
関係性は個別のケースごとに発生し、別々のそれらを大文字のジャンルでくくってしまうことは、どんなにスタンダードに見える関係性であってもあまり面白くない。
ということを前提として、たいていのモノごとは語られている。
フラットな世界は差を求める。
そうでなくては「フラットである」ということにはならない。
フィクションがフィクション足りえるのはリアルがあるからであり、リアルが引用されるのはなんらかの事柄を比較で浮かび上がらせるためだ。
あるいは、対象となる事象を再構築し、それを批判/敵対することによって。
おおよそ自由に表現できるとは言え、しかし自由であり過ぎればそこには意味が見出しにくい。
差別を描くためには、差別がある「現実」を物語内に再現するか、あるいは全く差別のない世界を書き、現実と現実世界で対比することでそれはなる。
しかしそれでは物語レベルでは何の意味もない。
だからこそ、本来なにかを打破するべき主人公が、一番とらわれて動けないという事の意味は大きいと見るべきだろう。
ただし、そこにはかなりの不快感が伴う可能性がある。
じっさいイライラするw