少年少女は成長するので

今日は友人と「宇宙ショーへようこそ」という映画を見てきた。
http://www.uchushow.net/
田舎の少年少女とイヌの姿をした宇宙人が宇宙で冒険をするという内容のアニメーション作品。
まさに王道夏休み映画という感じで(ただし今日行った劇場では本日で上映終了…)とても面白かった。
できれば小学生くらいに観たかったし、もし子どもがいれば一緒に見たい。
もちろん子どもいないけど。

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しかし少年少女ものの作品は、メディアを問わず非常に胸を締め付けられるものがある。
僕はこの間までそれは「自分がもうすでに戻れない場所にいる彼らが羨ましい」「もう一度彼らくらいの年齢に戻りたい」という感情なのだと思っていたのだけれど、この作品を見て「彼らもまた大人になってしまうのだな」ということに対するある種の悲しさなのではないかと思った。
先にフォローしておけば、「子どもが『大人』になる」ということ自体はネガティブなものではない。
「子供=純粋、大人=純粋ではない」という図式は、大人側から見た「純粋さ(ピュアなもの)」への憧憬的な感情であり、あるいは子ども側から見たら未知のものへの恐怖みたいなものだと思っている。
無垢であるという意味の純粋さを子どもに見るのは勝手だけれど、子どもってそんなものだとは思えない、自分の子どものときを振り返っても。
それに大人(大人の定義もかなりアバウトだけれど)だって日々変化しているわけで、確かに変わる速さなどは違うにしろ、いずれにしてもそれだけを取り出してネガティブな言い方をするのは、何か自分の欲しいけど手に入らないもの、あるいは失ったとおもっているものを、誰かに押し付けているだけのような気がする。
いや、それはまあどうでもよくて、しかもアニメーションのキャラクターは無垢であるという意味での純粋さを負担できる存在だと思っているので、現実の子どもと子どものキャラクターは別だけれど。
話がそれた。
なぜ「大人になってしまうのだな」なのかというと、結局成長あるいは時間が過ぎることによって得られるものと失うものが当然あって、得られるものはみえるけど、失ったものは二度と見られないということ。
物語内のレベルで見れば、冒険を終えた少年たちは成長せざるを得ず、記憶として冒険はのこっても、それは形をかえてしまう。
現実のレベルで見たとき、同一作品の二回目の視聴と一回目の視聴は、全く意味が違う。
一度目は原体験、二度目は回想。
大人(冒険後の彼ら、あるいはもう少し未来の彼ら)になった彼らの、子どもの時の記憶を見ている気分になるからだ。
一度見てしまった作品のキャラクターは、作品自体はそこで終わったとしても、冒険を経て成長した彼らがいかに成長するであろうかは想像せざるを得ない。
また、このことを考慮した上の一度目の視聴では、終われば即成長してしまう彼らを眺めているのだと思うと、つまりいまみているこの瞬間は、作品の終了と同時に遠い過去になり、そのほとんどを彼らは忘れてしまうのだと言うことが非常に悲しい。
そういう意味で少年少女の冒険もの作品はなんとも言えない気分になるような気がするんだけど、ひねくれ過ぎだろうかw