サボり気味だ…

何かと忙しいふりをして、いろいろ停滞していたりします。
というかここ一週間ばかり、ひたすら本を読んでいたりしていたので。
ブギーポップとか荊の城とかとかとか。
なにしろ本を読んで、ツイッターをやっていると、ブログが更新できない。
これは大宇宙神の真理であらせられまして云々。
ところで話題は大してかわりませんが、先生、恋愛って何ですか?
食べ物なの?
しょっぱいの?甘いの?それとも苦いの?
あまりに安易に使われている気配があるこの言葉、よく考えると正体がさっぱりわかりません。
というか、関係性を表す言葉ってあいまい!
友達以上恋人みまんとかいう言い方をしますが、お前らその基準は気分なの?それとも書類になってるの?
そして恋人の条件て告白なの?なんとなくなの?性交渉?
しかしどれにしろ例外が存在し、おおよそ明確な基準がない。
ストーカーだって、恋人宣言ができるご時世、というか言うだけならいつだってタダ。
ロマンチックラブ的な価値観は、壊されるために復古され、そして壊されては復古されを繰り返すのであります。
男女の友情は成り立つのか、以前に、友情って成り立つのかよ、おいとか思ったり。
打算のない関係って本当にありえるんでしょうかと思ってみたり。
だから本物の愛ないし友情を探すんだてきな、本質本物教には残念ながら入信できないのです。
本物なんていったって、結局相対的じゃねーかよ、ちくしょうと。
大体ですよ、時間経過と共に変わっていく恋人は、告白時点あるいはその他恋人というおおよその場合契約書のない不安定な契約を交わした段階の相手とは違う相手なわけです。
細胞的にも、そして人間的にも。
それでも変わらずに愛し続けるなんて誓ってるのをみると、お前誰でもいいのかよ、だいたいの条件がそろっていれば、とか投石されそうなことを思うわけですよ。(イタイイタイ
だって、ひとっておそらく変わるじゃん。
結局何に恋をするの?
だって現状知り得る条件を好いた上に、契約後にそれ以外の側面が見えてくるわけですよ、ほぼ必然的に。
あるいは無理やりつじつま合わせて何も変わらないと思い込めば別ですけど。
それってなにかおかしいというか、おかしくはないけど少し、それこそ本質的に何かがズレテやしませんか?
ずれてませんか、そうですか……。
既存のパッケージを個々の関係に当てはめたときに、そのイメージのせいで欠落するなにかをおおよそ忘れてしまうような気がするのだけれど、本当にそれでいいのだろうか。
すなわち、誰かを「友達」としてしまった瞬間に、ある程度その関係のイメージから導かれるものが、僕と君の関係を規定してしまう。
安易な関係性への決め付けはなんだか座り心地が悪い気がするのだけれどどうなんだろうなぁ……