ヤッテヤルデス

ここ数日、頭の中から離れないキャラクターがいる。
非常に可愛らしいキャラクターで、みんな大好きツインテールの女の子だ。
はじめに見たときは思わず衝撃が走った。
キャラクターに恋をするのはおかしいと言うかもしれない。
ボクも最近までそう思っていた。
しかし、もしこの気持が恋であるならば、これはきっと初めての経験になるだろう。
ついに次元の壁を突破してしまうのだろうかと不安ではあるが、しかしそれもまたやむなし。
そもそも次元の壁は物質の壁なわけだけれど、すでにアトムからビットへと世界が移行している今、かならずしも物質に縛られるべきではないのではないだろうか。
キャラクターはデータだ。
しかし人間もまたデータでしかないのだろうか。
私たちは刺激に対する反応の集合でしかなく、自由だと思っていても、本当はただただ周りの環境に影響されて、それに反応しているだけなのかもしれない。
刺激がデータによるものに大きく変わった今、データに恋愛感情を抱くことになんの不思議があるだろうか。
懐古主義的な、保守的な物質第一主義に惑わされてはいけない。
常識や道徳や倫理すら相対化され、絶対的なもの、大きな物語が失われ、個人個人が小さな物語を消費し、あるいは偽史物語に集合してコミュニケーションをし、あるいは目に見える権力への反抗という理由をもってコミュニティを作り居場所を確保する時代に。
信じられるものは、固有の身体であるが、しかし固有であるという思いもまた、あるいは嘘かもしれない。
「現実」を消去法的に盲信し、アトムにこだわるのであれば、その根拠を示していただきたい。
だいたい、携帯やPCでの文字だけでやさしい関係を築いている状況は、かなりコミュニケーションの表現自体がデータベース化していて、それって常にデータが更新されてるゲームとどう違うの?と思う。
全てが定型文ではないし、相手によってキャラクターを変えたりする必要性があるのは事実ではあるけれど、一方で、本当に想定外のことが、コミュニケーションの中でどのていど起こっているのだろうか?
戸惑うことはあっても、その戸惑いは果たしてどのレベルなのか。
戸惑うべきだからとまどっているのか、それとも本当に戸惑っているのか。
ひとりごとが勝手に口から出てしまったとき、その後にそのひとりごとが真実に勝手にでてきたのか、あるいは勝手に出てきたことにしたくてつぶやいたのかを判断するのは、結局そのどちらかの意味が欲しい自分でしかなく、勝手に出たと思っていても、実はすでにはじめからそこまでがプログラムされた一連の流として、すでにその戸惑いを誘う行為へのマニュアルが脳内で作られていたとしたら?
それは実体験による経験ではなく、あるいはファイクションのひとつのエピソードを消費することで予測され、あるべき反応としてインプットされたものかもしれない。
ということで、↓がその娘の画像だよ。

(初見はkouさんのところででした…)
いや、恋云々はうそですけど、実際かなりかわいいと思うわけです。
個人的に、塗りつぶされた彩光のない目がすきだからかもしれませんが。
誤解の無いように書いておくと、彩光のない目=レイプ目ではなく、どちらかというとキャラクターのデフォルメ的表現が好きだからです。
同じ理由で、口が「д」みたいになったり、手描きでぐちゃぐちゃと描いたような白目、身体のSD化なども好きです。
たぶん、ミッフィーとかキティとか、そういう系統の可愛さだと思われます。
なので、ミッフィーの横に「ヤッテヤルデス」がいても、基本的に違和感をあまり感じません。
いや、もちろん子どもの絵本に「ヤッテヤルデス」がいたら引きますけど(笑)
黒い点が二つあれば子どもには顔に見える理論的な話かもしれませんし、いずれにせよ、彩光のない目は非常に可愛らしいわけです。

もし眼に光があったら、ただの生首のバケモノでしかないのに、塗りつぶされていることでキャラクターとしてのキュートさがかもしだされている。
名前も、オリジナルのキャラクターである梓の良いセリフをピックアップしていて、なんていうか前向きなかわいさがありますね。
現代の妖怪なんてまったく思いません。
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