なにを対象として何が批評されているのか

去年から、『文化系トークラジオ Life』(http://www.tbsradio.jp/life/index.html)というラジオ番組を聞いている。
月イチの放送なんだけど、先月のテーマが「様々なる定番」。
その中で、サブカルチャ的な議論があって、音楽や特定の作品の批評の問題が取り上げられていた。
作品批評と、作品がコミュニケーションの手段として消費されていることに対する批評というパースペクティブがあって、社会学者がやるべきは後者だけれど、評論家がするべきなのは前者であり、にもかかわらずそれが今ないんじゃないかって話しだった。
(と思うけど、聞き直したら違うかもしれない。
ただ、つまり消費論と作品論が未分化されている、つまり「東方Project」あるいは「初音ミク」的なものに対する批評、あるいは「パフューム」という例もあがってたけど、それらに対する批評の形をどうするの?っていう問題提起だった。)
これって昨日書いた『日本の、これから『ダイジョーブだよね?若者とニッポン』(http://d.hatena.ne.jp/suna101/20100506/1273154049)』での議論と共通の問題で、つまり「大人」が語る人間論=作品論に対する「若者」のコミュニケーション論=コミュニケーションとして消費されること論なんじゃないかと思う。
ある程度メタ的な視点を持っている人が議論する場では、その論じている対象の違いという問題が言及されていたけれど、それが成立してなかったのが昨日の番組だった。
作品論が成り立つのかいなかについて、Life内では、需要の観点から否定的な意見が上がっていて、それはたぶん実際にそういう仕事をしている人の実感がそうなのであればそうなのだと思う。
また、YouTubeを抜きにした涼宮ハルヒ論が成り立つのか、ネットでのコミュニケーションを抜きにしたけいおん!論が成り立つのかという極めて単純な問題にたいして、そもそもオタクが消費することを前提にしている=ネタになるということがわかって作られている、つまり制作側と消費側のコミュニケーションを無視した話は、基本的には成り立たない。
コミュニケーションの手段として成り立たない作品、一部でのみ盛り上がる作品については、あるいはなんらかの文脈によった作品論が展開できるのかもしれないが、それ自体に需要があるのかという問題はとうぜんある。
「いいもの」とされるものがあって、「いいもの」だから流行るという意識は、少なくともサブカルチャ的な問題では考えにくい。
「いいもの」とされ、なおかつネットの口コミ的コミュニケーションによって流通するということはあっても、そうでなければそもそも認知されない。
なにかが再発見されたときに、再発見された上で流行するには、それなりに流行するための社会的な、あるいは流行したコミュニティに要因があるわけで、それがアニメ・マンガ的なものだと現在では圧倒的にネット口コミだ。
結局若者論にもどると、かつてよりも明らかに多くの情報にさらされていて、それが影響をもっているということを考えたときに、個人あるいは少数集団に対して、そこだけをピックアップして評することの意味は、果たしてどの程度あるのか。
問題は、作品単体に対する批評に需要がないとされるのに対して、個人の問題論にはそれなりの需要があるということだ。
需要があるゆえに、環境論的あるいはコミュニケーション論的な問題に、必ずしも論者が降りてくる必要がないということが、議論の対象のズレという問題についてきちんとした取り組みのしにくい原因に成っているのではないかと思う。

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