日本の、これから『ダイジョーブだよね?若者とニッポン』

今日(5月6日)にNHKで放送された「日本の、これから 『ダイジョーブだよね?若者とニッポン』」を見て思ったことを。
この番組や、あるいは最近話題になった勝間和代氏とひろゆき氏との対談でも思ったことだけど、ネタに傾斜している「若者」に対するベタな「大人」という図式がある。
若者の意見が社会的なモノに対してアイロニカルなのは、そもそも赤軍リンチ事件などに対する反発などからくるしらけ世代的なコンテクストがあるし、リテラシー的な問題で疑うことへの訓練的なこともあると思われる。
一般に言われるメディアリテラシー的なものは、良いものの選別というよりは、悪いものを見極めるという意味合いが強い。
小さい時からネットワークを利用する環境にあるということは、わりと高度なレベルで疑うと言うことが必要になる。
この番組やさっき上げた対談の問題、あるいは様々な場所で建設的な議論が成立しにくいのは、議論の場をベタとして捉えている「大人」に対して、議論の場にいる「私」をメタ的な視点で見ざるをえない「若者」が、そもそも同じ視点で問題を論じていないということを、前提として捉えられていないからではないか。
メタ的であることがいいのかどうかは別にして、そうせざるを得ないということが、「大人」に対する「こうして欲しい」言説につながっていると思うのだけれど、「大人」はそれに対して気がつけていないし、気がついたとしてそれを肯定するのかどうかは微妙だ。
つまりベタに対してベタであることに絶対的な価値観を持つとすれば、それに対するアイロニカルな視点に対して肯定的でいることは難しいように思う。
番組での発言が多かった=わりと番組的に重宝されてたからと言う理由で例えに使うと、室井佑月的な自分の位置に絶対的なものを持っている人に対して、若者はアイロニカルに嘲笑するか、もしくはその根拠になっているような社会的な観念自体に対する自信の正体がわからないという混乱、不安がある。
ひろゆきとの対談における勝間和代的な言説や、あるいは室井佑月的な言説は、しかしそれ自体を否定するつもりはない。
結局ベタに生きざるをえないというリアルな問題に対して、彼女たちが若者に対して理解出来ないという感情をもつことは理解できる。
ただ、結果として「〇〇族」から「〇〇系」的な、「私たち」から「私」的な価値観の推移を考えると、議論はつねに私対大勢の相手あるいは自己が想定する相手全体を象徴する誰かでしかなく、それを前提にした議論は虚像のなぐりあいに過ぎない 。
番組としてまともな議論をするなら、まずその前提としての議論に対する「私」の視点の違いを理解する必要があったのだと思うけれど、それが行われたような形跡はなかった。
もともと一時間半の番組に、そんなことは期待していないけど結果として起こったのは、スタジオレベルでは「大人」サイドの説教と、それに対する「若者」の要求ということだけで、お茶の間レベルでは「大人」サイドの「大人」に対する共感と「若者」に対する反発、そして「若者」サイドでは「大人」に対する反発と、かと言って必ずしも共感できない「若者」に対するアイロニカルな見方しかのこらなかった。
あるいはコミュニケーションのためのネタとして、2ちゃんねるTwitter上で消費されるだけだった。
語られるべきは自己が想定した「大人」あるいは「若者」もしくはスタジオの具体的な他者ではなく、その背後にあるコミュニケーションの文脈であり、社会的な背景でなければならかった。
にもかかわらず、行われたのは虚像に対する個人攻撃と「説教」そして、メタ視点でベタな問題を語らざるを得ないという若者の問題に対して、いかに取り組むかということが、結果としてベタなものを「大人」に要求する心理であるという問題だと思った。
「若者」サイドとして考えるべきは、「大人」へのアイロニカルな笑いではなく、相互理解のための説明と、メタ的視点でいるという事を生かした場の形成ではないか。
絶望的な断絶のスタート地点にあるのは、圧倒的な相互不信と不理解があると思う。
が、それが必ずしも悪なのかは、結局よくわからないのだけれど。(と、逃げてみたりして)
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