Twitterと推敲の問題

発信箱:つぶやけない=滝野隆浩(社会部) - 毎日jp(毎日新聞) 発信箱:つぶやけない=滝野隆浩(社会部) - 毎日jp(毎日新聞)
↑の記事、またTwitter批判かと思って読んだら、最後で笑ってしまった。
べつにバカにしてとかではなくて、結局こういう問題は終始続くんだろうなと思って。
何かを言うときに、一呼吸置いてからしなくてはいけないのではないか、という問題提起なのだけれど、しかしそれは必ずしも全てに言えるのかどうか。
ツールにはそれぞれ役割があって、使い方もそれに応じて違うわけだし、そもそもTwitterの魅力は同時間性で、なおかつ感覚的・相互的な使われ方だと思う。
その使われ方に対する疑問は、そもそもなぜそのような点に人がひかれるのかというところに向けられるべきで、文章をちゃんと推敲する必要があるというのは少しずれている気がする。
もちろん、オープンであるということや、著名人であればあるほど発言に影響力があるということは意識しておかなくてはいけないと思うけど。
恣意性はどんなメディアを使おうが当然に発生するし、社会に対して関わっていく以上、なんらかの意志がそこにあることは事実だ。
むしろ、感覚的な書き込みがされるメディアであることを考えれば、恣意性を受け手側が逆に読み取ることも不可能ではない。
煽られることで見えるその人の、他のメディアでは見れないキャラクタが露見することもあることもあるわけだし。
記事内で触れられている、パネリストが討論中にTwitterをしていることに関しては、事前の合意や周知があればいい話。
もし不愉快なら事前にそういう行為をやめさせるなどのことをすればいい。
新聞などのメディアはなんども練った文章を記事にすればいいし、Twitterは直感的なことを書くという住み分けができるのだから、否定するよりもそのことを周知する事の方が必要なんじゃないだろうか。
あと、Twitterやあるいはケータイメール的なものに若い人が惹かれるのは、刹那的なコミュニケーションであり、直感・感覚を重視する所だと思う。
思った時点から、文章を練りなおすうちに、元の感情に対する上書きが行われることで、ストレートな感情表現からそれる(気持ちを文書にした段階ですでにだいぶずれているということも織り込み済みで)。
やはり場合分けをすればいいだけの話だし、した方がいいよ、ということは大事。