どうでもいいこと

バラバラに保管していた本が全部手元にそろった。
ラプンツェルを思い出してから無性に読みたくなっていた日本の民俗学系の本も。
五年ほど前に仮面ライダー響鬼京極夏彦と、それから自分の大学での専攻の関係で民俗学にはまっていた時期があって、柳田國男宮本常一、それからいくつか論文集みたいなものを読んでいて、結構楽しかった。
小松和彦さんとかも読んでた。
神かくしと日本人、や、異人論とか。
ばく然とした、昔の農村の風景に、いろいろと意味が見出されていくのが面白かった。
遠野物語や妖怪談義を読んで、西洋の童話にも興味を持って、その時にグリム童話も一応一通り読んだ。
ラプンツェルもたぶん最初に読んだのはその時だと思う。
塔のお姫様というモチーフ自体は、ありがちな設定としてそれ以前から知っていたけど、元ネタとしてそれを読んだのは。
結局それ以上民俗学も、童話も深くは追求しなかったけど、つい∀ガンダムとの関連で金枝篇を買って未だに読んでなかったりするけど。
ただ、童話的なモノにもとめる幻想性自体を、じつは童話はあまり与えてくれなかった。
なんていうか、日本のモノにしても西洋のモノにしても、グリム童話も民話も土や木の匂いがしていた。
もっとふわふわとした、靄にかかったような物語を読みたかったのに。
靄をかけるには、あまりに自分と繋がりがない舞台ではいけないのかもしれない。
ほんの少し、現実からずれた舞台で、そこで現実以上にリアルなことが、じつは一番いろいろなモノに靄をかけてしまうのかもしれない。
ただしそれは、あくまでも曖昧で、けして直接的ではなく。
そういう意味で、セカイ系的なものがたりは、ある種の靄をその世界に持っていたように思えたのだけれど、そこには逆に童話性が乏しいように感じられた。
童話性というのは、童話的な物語というよりは、もっと抽象的な、幼さのようなものであり、教訓のようなものであり、閉じられていて、それでいて開かれたもの。
セカイ系的なある種の閉じた世界は、開放としての二次創作があったり、そういう現実的なものはあっても、なんていうか童話的な広がりが感じられなかった。
だから僕は『どろぼうの名人』がたまらなくいま、好きだ。
読んだばかりの本に、どうしてこんなに熱中してしまっているのかはわからないけど、本当に。
この間からわりと熱心に感想を書いている豊島ミホさんの作品とは全くちがう理由で好きだ。
豊島さんの作品に僕が惹かれるのは、後から思い出すときに消されてしまう思いへの優しさであり、故に豊島さんの作品を読むときに僕は先に進みたくなくなる。
本を読み進めるということ自体が、その先に読んだエピソードに後から読んだエピソードから得る印象による膜をかけてしまい、最初の印象で得た思いを忘れてしまうからだ。
それは作品のなかで大切にされる思いを、作品を読むことで、物語レベルでも現実レベルでも消してしまうことになる。
一方で「どろぼうの名人」は、すでに後から物語が回想されていることをにおわせる文章がはさまれ、ゆえにすでに僕はその消えてしまう感情・思い出を諦めて、あるいはそれを気にすること無く、むしろ結末へといそいでたどり着きたくなる。
しかしその道程が独特のあの靄につつまれ、僕は本当の結末へ、たどり着くことはできない。
故になんども漂えるし、道を辿ることを繰り返す。
反復することで仮の結論へなんどもたどり着き、しかし元の位置にもどってしまえば実はそれは幻であったかのように思え、実際にそれは幻に過ぎない。
同じ思い出を塗り替えること無く、幾度も結末へたどりつき、その道筋を上書きすることはない。