けいおん!!一話を見て思ったこと―ラプンツェル達は塔を出るのか

札幌では今週から放送が始まった「けいおん!!」をようやく見た。
一部地域と比べるとだいぶ遅いスタートなので、正直動画サイトに頼ろうかと思ったけど、別にDVDを買う予定もグッズを買う予定もないのだから、最低限CMを見るくらいの貢献はすることにした。
けいおん!!」でなければそんなことで悩まず、見るのを諦めてたけど(あるいは放送までまったけど)。
それくらい楽しみにしていたけいおん!!なわけですが、一話を見てなんとも不安な気持ちになった。
基本的にネタバレを避けようと、ブログとかを意図的に見ていなかったんだけど、ゆいいつ一話を見る前に見たのが↓のブログ。
『けいおん!!』におけるループ構造――日常系アニメに物語は必要なのか - 反=アニメ批評 『けいおん!!』におけるループ構造――日常系アニメに物語は必要なのか - 反=アニメ批評
一期の「けいおん!」と比較して、既視感のある映像が繰り返されることに言及されていて、涼宮ハルヒの憂鬱二期におけるあのエンドレスエイトが連想される、とされている。
僕はエンドレスエイトには巻き込まれなかった(ハルヒの二期はみていない)ので、そもそもそれがどのようなモノだったのかは伝聞でしかしらないし、問題にしたいのはそこではない。
上で紹介させていただいた記事でも、むしろ問題にしているのはあずさのことのように思えるし、僕もまさにそのことに不安を感じた。
で、実際見て不安になった。
日常系あるいは空気系と言われる作品に求められるのは、基本的に意味のないエピソードだと思っている。
個人的な解釈では、ストーリーはどうでもいいエピソードのつなぎ合わせだが、「日常系」はそのエピソードに事後的に意味が付与されるのにたいして、「空気系」はその意味の付与すらを回避するものだとしている。
作品単位で「日常系」とした場合にはエピソード達にしめる「日常系」エピソードの割合が多く、「空気系」作品とした場合にはその逆。
けいおん!の場合、意味が付与されない(作品内でそのエピソードが何かの意味を持たないという意味)エピソードが多く、それが魅力だったのではないかと思う。
あるいは、「日常系」エピソードと「空気系」エピソードのバランスがよかったか。
そこにあるのはどうでもいいエピソードという現実にあふれた、視聴者自信が日々自ら経験していることにたいする肯定であり、それが居心地のいいアニメになった要因ではないか。
しかし二期の一話において、軽音部の構成に対する問題が浮上する。
三年生4人と二年生ひとり。
しかも新入部員はおそらくはいらないだろうという事実。
ここに、一つの作品を通してのストーリーが成立してしまっているのではないか。
あるいはもう一つ、卒業という問題。
二期ではすでに4人が3年生になっている。
一期が1クールで二年間を描いたのに対し、二期は二クールでおそらく一年間が描かれるだろう。
これは、まさにエンドレスエイト的なことが起こらない限り、たぶん卒業までいってしまうことを想像させる。
一話の校歌斉唱の場面を見て、僕は卒業式を連想してしまった。
つまり、一期ではたんなるエピソードの集合であった物語が、二期では全体を通してたった一人の2年生そして卒業という軸がもうけられた物語になってしまっている。
そこではたして一期のような楽しみ方を僕たちはできるのだろうか。
なぜ二期ではそのような作りになりそう(他の地域ではもう三話も放送されているころだから、もしかするとこの文章はまったく見当違いのことを書いているかもしれないのが怖いが)なのか?
ここでタイトルに入れた「ラプンツェル」について考えたい。
ラプンツェルグリム童話集に収録されている一つの童話だ。
昨日感想を書いた「どろぼうの名人」でもモチーフとして利用されているし、映画「ブラザーズ・グリム」でもクライマックスはこの童話の舞台の塔だった(と記憶しているが、見たのが少し前なので違うかも……)。
魔女に幽閉されたお姫様の話、といえばなんとなく思い出すひとも多いかもしれない。

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子どもがなかなかできなかった夫婦がようやく子どもを授かった。
二人の住んでいる家の窓からは、ひとびとに恐れられる魔女が持つ、塀に囲まれた畑が見える。
ある日つまは、その畑に野ぢしゃ(ラプンツェル)が植えられているのを見て、それを無性に食べたくなる。
夫は勇気を出してひとつ盗み出し、妻はそれを食べるが、食べてしまったためにかえってさらに食べたくなってしまう。
夫はふたたび盗みに入るが、魔女に見つかり、好きなだ野ぢしゃを取っていっていいが、娘が生まれたら魔女に差し出すと約束をしてしまう。
やがて娘が生まれると、魔女はその娘を連れて行き、ラプンツェルと名付け育て、12歳になったときに森の出口のない高い塔に閉じ込めてしまう。
魔女が彼女に会うためには、彼女に合図をし、髪をおろしてもらってそれを登るのだが、ある時彼女の歌声を聞いてココロを奪われた王子が、その方法を盗み見て塔に登る。
なんども会ううちに、二人はこっそりと塔の外に出ることを約束するが、ラプンツェルがうっかり魔女にそのことを漏らしてしまい、彼女は魔女に追い出され、彼女に会いに来た王子はそれを聞いて塔から身を投げ、野ばらで失明をする。
失明した王子は、やがて二人の子どもを産んだラプンツェルと再会し、抱き合ったところで目が元通りに戻る。
そして国に帰ってふたりは幸せに暮らしました
(参照:『完訳 グリム童話集』金田鬼一訳、岩波文庫、1979)

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さずかった子ども(ラプンツェル)=作品・キャラクター
両親=製作者
魔女の畑の作物=利益
魔女=消費者
と考えると、前半のストーリーは、生み出される(ようとする)作品・キャラクターの対価として利益を得た結果、魔女=消費者によって作品・キャラクターは大事にその製作者のもとから離れたところで育てられる。
ラプンツェルは、魔女しか知らず、ただ与えられるだけのそんざいである=自由に想像・動かされるキャラクター。
しかし後半はどうか。
王子が現れることによって、ラプンツェルは(受動的に)その状態から抜け出すことになる。
つまり作品がストーリー性を帯びる。
王子とはなにか。
それはラプンツェルを塔(閉じ込められた世界)から国(開放された世界)に連れ出す役割をおったものだ。
話数が倍に増えたことで、もともとエピソードの集合としての物語だったものが、それだけではカタチを保てなくなる。
その保つためのものが王子・ストーリー性ではないか。
また、ネット局が増えたと言うのもより開放されたということにつながっているのではないだろうか。

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とか一話をみて思ったりしたわけだけど、正直こんなめんどくさいことを考えても、すでに他局で見てる人は3話とか見てるわけで、完全杞憂だったら馬鹿みたいだし、純粋にたのしんだほうが得だねw

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(ラプンツェルの解釈の一部は、「どろぼうの名人」を参照にしました)

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