同性愛と異性愛

『同性愛と異性愛』(著:風間孝・河口和也、岩波新書)を読んだ。
主にここ20年の同性愛をめぐる出来事を中心に紹介し、同性愛、そして浮かび上がる異性愛について考えさせられる良書。
男性同性愛者の話がほとんどなので、女性同性愛者についての話を読む必要があるという人には向いていない。
感情とどう向き合うか、社会のマイノリティを々考えるかということを考えさせられる。
絶対的な規範も価値観もない時代に、僕たちができることは、「自分たち」と異なるものを排除する行為によって「自分たち」の共通性を確認することか、あるいはあらゆるものを平等にできるかぎり包括していくことしかない。
なにか新しい問題が起こった時に、どのようにマイノリティが「発見」され「蔑視」されるのか。
どうしても普段見えていないものに対するイメージは誤りやすい。
同性愛が気持ち悪いという感情を持つことの否定はできないが、しかしそこで思考停止してしまい、正確な情報を持たずに差別をすることは危険だ。
それはマジョリティにいるということの傲慢さであり、自分がもしマイノリティになれば、まず理解してくれと言わざるを得ないことを考えなくてはいけない。
本来保護されるべきマイノリティが、結果として監理・監視の対象となるようなこと(本書で触れられているエイズ予防法のような)は、短時間の見せかけの安心を得ることはできても、長期的に見ればつねに自分がマイノリティになったときへの不安をあおる。
どんなマイノリティも保護されなければならない、と理念的には思うが、現実的にはそれは難しい。
しかし少なくとも、僕は現実的に考えても、当然に同性愛者は守られなくてはいけないとおもう。
もはや子供をつくるということは、義務でも何でもない。
日本という国を今の形で維持することが必要であり、その必要性が妥当だ、正統だと言われることはあっても、それは根拠のない話だ。
なぜ維持する必要があるのか?
個人化した現代に、ジェンダーという社会的なしばりは時代錯誤ではないだろうか。
恋愛も、女男・男女という関係、生殖を前提としたカップリングから、個人と個人の関係というレベルになったとして、そこに不自然さはない。
もちろん同性愛者が多数になるとは今のところ思っていないけど、むしろそんなことを気にしていることがおかしいのではないか。
個人化して、しかし残った身体的特徴を、克服するのが理性ではないのか。




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