狂信者と常識人

asahi.com(朝日新聞社):元オウム幹部の新実被告、死刑確定へ - 社会 asahi.com(朝日新聞社):元オウム幹部の新実被告、死刑確定へ - 社会 asahi.com(朝日新聞社):元オウム幹部の新実被告、死刑確定へ - 社会 このエントリーをはてなブックマークに追加

狂信者や異常者というのは、その社会で正常とされるものを再確認するためのスケープゴートだ。

誤りがなければ正解はなく、正解がなければ誤りが無い。

「正解」とは「社会」で採用されている物語だ。

物語の妥当性が不確かな今、こういったパーツを継ぎ足して行くことでその維持が図られている用に思う。

「普通の人」との違いは、何を信じているかと何を大切にしているか、どの物語の中を生きているかであり、最終的には数の問題だ。

彼が採用した物語は、社会の大多数が共有している物語から拒絶されるものだった。

ことさら宗教の問題になると、その異常性が強調されるが、それはあくまで僕たちが受け入れられない考え方を採用しているからに過ぎない。

宗教と常識・道徳・倫理の対決ではなく、実際に行われているのは宗教戦争だともいえる。

僕たちは例えば普遍的な権利を神々とする多神教、あるいはそういった権利が存在するということを神とした一神教を信じているだけに過ぎない。

そして具体的な教義を、例えば法律という形で表している。

ある特定の宗教を信じているから偏っているとか、信じていないから公平だということではない。

そもそも最初の段階で、すでにそういった信仰を持っているのだ。

別にそれが悪いとかいいとかいう問題ではなく、そういったことを自覚している必要があるのではないか。

つまり特定宗教を信じ社会的な常識などから逸脱するような事を信じたりあるいは行ったりする事は、僕たちが法律を守ることと何ら違いが無いのだと思う。

それはたまたま社会に受け入れられないだけだ。

裁判が間違っているとか、事件の正当化とか、あるいは新実氏の弁護ではない。

朝日新聞の朝刊では、「思い上がり」という言葉を使っていたが、それこそが思い上がりではないのか、ということを言いたいだけだ。

生活するうえで、「社会」の採用する「物語」を生きることを選択はするが、それはあくまで「物語」であることを自覚する必要があると思う。