黙って行かせて
ヘルガ・シュナイダーの『黙って行かせて』を読んだ。
三浦しをんさんのエッセイで紹介されていて気になったので。
ナチスの強制収容所元看守の母を持つ著者が、三十年近く会っていなかった母と再会するというノンフィクション。
著者とその母が離れ離れになったのは、まだ大戦中で、それは母が自ら望んでナチスに貢献するためだった。
幼い弟と、戦時下に取り残された著者は、叔母の家や祖母の家を点々とし、やがて父の再婚を期に、戦地に赴いていた父をのぞいた継母と弟と三人で暮らす事になる。
しかし彼女はそこで、継母から嫌われ、施設に預けられる。
なぜ母は幼い子どもたちを置いて出ていったのか。
著者は別れから三十年後に一度、母を尋ねたが、しかしそこにいたのは、ナチスの制服を自分に着せようとする、そして過去に対して反省のない母の姿だった。
それからまた三十年近く、彼女は母と会わなかったが、母の友人からの手紙を受け取り、従姉妹につきそわれて再び会いに行くことになる。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
読んでまず感じるのは、一言で言えばどうしようもない虚脱感だ。
著者がなぜ母に今更会ったのか。
それは母親を拒絶するためだった。
自分の中から完全に彼女を消し去るために、彼女は母親に母親という属性もそして現代人としての常識も、否定して欲しかった。
著者の母親は九十歳を超える年齢で、精神的にも治療を受けるくらい(それは年齢だけの問題ではなく)混乱している。
その母親に対しての追求は、気持ちはわからなくはないが、残酷に思えるほどに厳しい。
しかしそれは、著者が母親に求める非母親的な、非常識的な人格とは、別のモノを探しているからなのだと思う。
いずれにしても、救われないのだ。
三十年間没交渉だった母親との再会で、たとえ母親がどんな感情を表したとしても、著者は決して救われなかっただろう。
拒絶もできず、かといって受け入れることもできず。
これは勝負ではないけれど、はじめから勝てる見込みなどなにもなかった。
それは著者も十分わかっていたはずだ。
それでも会ったのは、結局ふたりが親子だからという以外に説明はつかないのではないだろうか。
母親は自分が捨てるように置いてきた娘に「マミィ」と呼ぶことを要求し、娘は母親を憎むことはできず愛せないだけだと思う。
二人の思いは結局咬み合うことはなく、訳者のあとがきによれば母親はもう亡くなったそうだ。
この本の中では、著者が体験したナチスの思い出や戦争中のベルリンのこと、それに母親が体験したナチスの強制収容所のなまなましいはなしが多数でてくる。
しかし、僕はその内容よりも、この虚しい親子関係に虚脱感を感じずにはいられなかった。
他人よりも遠いようで、結局近くなければいけないということはひどく残酷だと思った。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
明らかに常軌を逸した母親のナチスへの傾倒ぶりを、僕は非難することができない。
この本には、母親の過去というものがあまり書かれていない。
どうして彼女は子供を捨ててるところまでいってしまったのかということが。
そしてどうして戦後もずっと、考えを変えなかったのか。
何かにすがらずにはいられない人を、哀れだと思うことは簡単だ。
軽蔑することだってできる。
でもそれに何の意味があるのか?
やったことが許されなかったとして、しかし僕たちがするべきはその行動までの心理の理解であり、受け入れることではないのか?
それは置き去られたという過去をもつ著者に求めることは酷かもしれないが、この本を読んだ読者にはできないことではない。
彼女がユダヤ人を憎んでいたのは事実だっただろうし、きっと収容所でやったことも間違っていたとは思っていなかったかもしれない。
けれども、それは最初からそうだったのか、それともそう思わずに入られないことがあったのかは、誰にも分からないはずだ。
そこにいたるまでに様々な心の動きがあっただろうし、そもそも歴史的な背景を考えなくてはいけない。
今の理論のみを安易にあてはめて、過去のことを糾弾するのは乱暴だ。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
著者は小説も書いているし、この作品のことを自伝小説の形をとった、と言及してる。
その通り会話文が多く、平易だ。
若干、過去(戦中、一度目の再会時)と現在とが混乱するようなところがあるが、それも読み返せばすぐにわかる程度。
おすすめです。
黙って行かせて
|