土浦連続殺傷事件

asahi.com(朝日新聞社):土浦連続殺傷事件、判決理由の要旨 - 社会 asahi.com(朝日新聞社):土浦連続殺傷事件、判決理由の要旨 - 社会

去年の三月。

時間が経つのは早いなぁ。

死刑になりたいから人を殺すという動機は、どう考えればいいのか。

僕はわりと理解できる動機のような気がする。

生きることに意味を感じない。

でも自分が死んだ方がいいのか良くないのか、最終的な部分で判断が下せなかった。

だから人を殺した。

死刑になるかならないかを賭けた。

他者もまた自分と同じ人間だという考えが足りない。

自分や、自分の家族が突如理由もなく殺されることと、他者が同様の目に遭うのは、自分の価値観からすれば全く等価ではないのだろう。

それも理解できる。

何も信じるモノがなければ、自分であらゆる価値を決定しなくてはいけない。

そこにどういうバイアスがかかってくるかは、環境やタイミングによるだろう。

この事件の被害者は、家庭環境などの問題があったらしい。

それがどう影響しているのかしていないのかは、今の段階で僕は知らないけど。

別に犯人をかばうつもりはないけど、彼の考え方が間違っているとは思わない。

もちろん、裁判は基本的に現行の秩序の維持のためのイベントだから、判決は問題ないと思う。

量刑とか詳しいことは適切かどうか知らないけど。

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理解という言葉を使うと怒る人がいるけど、あくまで理解しているのは『僕が考える彼の理屈』でしかない。

でも、画面を通して、紙面を通して伝えられるのは結局受取手の考える理屈でしかないんじゃないだろうか。

仮にどんなに犯人が自分の思いを語ったとしても、それを正しいとする根拠はどこにもないから、結局自分が納得できる理屈を見つけざる終えないからだ。

深層心理とか、社会的な影響とか言われたら、いくらだって理屈はこねられる。

繰り返すけど、別に犯人をかばうつもりはない。

けれど僕は殺人だろうが戦争だろうが、個別にそれを糾弾するつもりはない。

というかできない。

背景や事情以前に、それを糾弾する基準を見いだせていないからだ。

それと、無理解というか理解しようとしない姿勢が次の問題を生むんじゃないかと思ってる。

理由が理解できない=不気味、というのは、思考停止だ。

まず理解しようという姿勢で取り組まないと、問題の基本的な部分の認識がずれたまま変な議論になっていくような気がする。

犯人に同情しろとか、弁護しろという訳じゃなくて、単純にいったん受け入れるべきじゃないか。

例え中二病こじらせただけの話だったとしても。

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死にたいけど思い切れない、という思いは結構日常的にあるような気がする。

パーセンテージは本気5%とか位でも、なにかのバランスを崩せば一気に反転しないとも限らないのではないか。

僕はそういう意味で、こういう事件がもっと続くと思っていたけどそうならなかった。

まだいろんなモノがきちんと働いてるってことか?

それにしても何で控訴したんだろう。