総指揮〇〇による葬式

先日東北地方で祖父の葬式などがあって、その後の手伝いをして昨日札幌に帰ってきた。
葬儀への出席前に思ったことは出かける前の記事に書いたけれど、一応出た上での感想(?)も書いておこうと思う。
ただ、たぶん一部の人には相当に不謹慎に感じることがあるかもしれない内容になっているので、真面目な人は読まない方がいいかも><;
というかタイトルがすでに不謹慎

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いまどきどういう葬儀が多数を占めるのかは知らないけれど、祖父の葬儀は感覚的に「葬儀」というより横文字のイヴェントとしての「セレモニー」としか思えなかった。
宗派は忘れたけど、一応新興宗教・新新宗教ではなくて古いやつ。
ただ、会場はセレモニーホールだった。
まずはじめに式場に入った後、ブルーのライトが点灯されて、「故人はこういう方でした」みたいな文章の朗読が行われたんだけど、その時点でもうなんというか演出過多。
いや、それ以前に、祭壇の背後に雪景色のパネルが4枚展示されているというよくわからない装飾の段階で笑ってしまっていたのだけれど。
スピリチュアル臭とでも言ったらいいのか、なんかそういう流行と、「哀しみましょう」オーラが相まって、故人の死を悲しむどころか冗談みたいだった。
これは僕が無宗教だからだとか、死に対する想像力が無いからとかと多分関係がない。
あとで親戚の人と話したけれど、みんな同じようなことを言っていた。
ただ、かと言ってお寺で粛々と葬儀が進んだら悲しかったり死を悼んだりできたかというと、たぶんそれも違うんだろうなと思う。
なんというか、僕が読み込む葬儀一般に関わる演出に関するコンテクストが、それを厳粛に見せるようなものではなくて、「結局演出の問題」という程度のものでしか無いから、いずれにしろ変わらない気がする。
一応、いちいち「不謹慎だな」くらいは頭に浮かぶけれど、知らないお経の後に般若心経が読まれたら「般若心経キタ━(゚∀゚)━!」くらいのことを同時に頭のなかに思い描く程度に儀式の内容はどうでもよかった。
前にも書いたけど、祖父が死んだという実感はないし、今後も多分わくことはない。
誤解があるといけないから一応書いておくと、セレモニー化していることに対して特になにかを感じているわけではない。
むしろより「死」を相対化するのに、イヴェント化した葬儀はフィットしている感じがする。
ここ数日(というかもう数年だけど)のニュースを見ていて、これはあまりに反発を買うかもしれないから具体的なことは伏せるけれど、共感できる他者の「死」は過剰に物語化・エピソード化されて報道されるのに、共感しにくい他者の「死」はヘタをしたら数字すら伝えられてない。
そこに問題があるのか無いのかは判断できないけれど、なんとなく過剰な「共感」への期待というか欲望がある一方で、自分の範囲外への想像力の欠如があるように思える。
命が全て平等に価値があるかどうかなんてことは知らないけれど、あまりの天秤のバランスの悪さは、なにか(その伝え手が共有しようとしている、受け手が欲望している「共感」に対しても)決定的な問題をはらんでいるんじゃないか。
少し掘り下げて考えれば、安易な「哀しみ」の「共有」は「共有」それ自体への欲望でしかなくて、それでもいいと開き直れるならいいのだけれど(というかむしろ最終的には開き直りを選択するのがいいと個人的には考えるのだけれど)、それすらも考えずにただ本人の自覚と関係なく悦に浸って悲痛な表情を浮かべるのなら、失笑するしかない。
誰かの死を「特殊化」するのであれば、その他大勢の「死」を無視しているという現実に常に目を向けるべきだと思う。
が、それを自分ができているとは全く思えないので人には言えないけど。
というか「特殊化」ができないのでオール均一祭状態なんだけど。
ああ、話がずれた。
人が死ぬと結構な数の事務処理があって、それがなかなか大変だということは、今回はじめて知った。
特に世帯主が死ぬと、ライフラインそのたもろもろの名義変更や引き落とし口座の変更があってやっかいだ。
けれど、祖母の様子をみていると、それがあるだけいろいろと考えずに済む分、死からのしばらくの期間やることがあるというのはクッションの役目でもあるのだなぁと思った。
あと、役所での手続きがすごく面倒くさい。
手伝う人がいればいいけど、お年寄り一人だとワンストップでやらないとかなりキツイと思う。
全部まわったのに、手違いで後日書類を発送するので記入して提出してくださいとか平気で言ってくるし。
それから香典返しの引き出物カタログが大量に来るので、大変。
布団とか鍋とか、香典返しされても迷惑だろってものが結構いろいろ載ってておもしろかったけど。