信用とか期待とかは勝手にするもの

よく「信用する」とか「期待する」という言葉を使ってしまうのだけれど、それが裏切られたことを嘆くことにはあまり意味が無いんじゃないかと思う。
いや、嘆くのはいいけど、裏切った相手を恨むのはお門違いだ。
「信用する」のも「期待する」のも、こちら側の勝手な行為や思いでしかない。
「しろと言われたからした」なんて言っても、それすらも個人の選択の結果だ。
信用も期待も、与えるもののようであって、これらによって与える側も「その対象に対する疑いやその検証というコストを省く」という利益を得ている。
多少のことに目をつぶって何かを信用するのであれば、目をつぶった分の利益を得ている。
例えばマニュフェストが実行可能かどうかの検討を、「自民党へのお灸」とか「政権交代への期待」という言葉で省略したとき、その時間は別の何か使われる。
あくまでも自己の資源の分配方法の問題であり、相手の裏切りはリスク管理の問題だ。
相手を非難する自由はあるし、そもそも違法行為は問題外だけれど、単に心情的な問題で「信頼」や「期待」への裏切りをした相手を攻撃するのは、自分の選択がまずかったことを八つ当たりしているように見える。
信用するなら裏切られてもいい相手・事を信用するべきだし、期待もまた同じだ。
裏切られてがっかりするのは勝手だけれど、あたかも全くの被害者であるかのような振る舞いには失笑せざるをえない。
むしろ信頼がなければそれに対する裏切りがありえないことを考えると、共犯関係ですらあるように思えるのに。