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わりと好きなジャンルにミステリがある。
中学時代には赤川次郎内田康夫をひたすらに読み、高校の後期からは京極夏彦を読んだ。
大学に入ってからも、京極夏彦は新刊が出るたびに読んでいたけれど、特別好んで読むミステリ作家は増えなかった。
去年末から今年はじめにかけて、伊坂幸太郎東野圭吾道尾秀介西尾維新の作品を読んだ。
そしてここ一週間、清涼院流水のコズミックとジョーカーを読む。
ミステリを読みたくて読んだわけではなく、別の理由で読んだのだけれど、作品は複雑でも読み物として単純に面白かった。
なぜ自分がミステリを読むのが、特別偏重しているわけではないけれど、好きなのかと思ったときに、やっぱりそれは人が死ぬからだと思う。
いや、正確に言うと、殺意が好きだ。
というとなんか物騒だけれど、殺意ではなくても、なにかを強く思うということに惹かれる。
たまたまそれが殺人に向かうから殺意なのであって、創作に向かえばべつの呼称が与えられるだけだ。
殺人に向かう強い意志を負の感情とするのは、それを観察する側の基準にすぎない。
芸術に向かうそれを評価することもまたしかり。
あまり自分が、なにかを強く望んだりするということがないせいか、どうもなにかを強く求める、思いつめるということに対してある種のコンプレックスがあって、そのせいで殺意だろうが別に芸術だろうと人助けだろうといいけど、それに向かう強さのようなモノにひかれやすい。
しかしその中でもあえてミステリの中の殺意に惹かれるのは、それが負のものだとされる環境にあるからだろうと思う。
人殺しは悪であるとされるがゆえに、人殺しは悪ではないと言う。
殺意は負の感情であるがゆえに、負の感情ではないという。
天邪鬼ではなく、相対化するために共有される前提を一度くぐった上で再度置き直すという行為によって、そのマイナスの評価をゼロにして、絶対値のみを取り出すことが多分好きなんだろう。
僕は、ミステリの謎解きにはあまり興味がなくて、それはひとまず犯人の名前が示されればそれで十分だ。
そこに合理性やあきらかな矛盾があったとして、殺意は非合理にもならなければ矛盾もしない。
思い違いによって抱いたものであっても、独りよがりな感情によって抱いたものであっても、それはたしかに作品内に存在し、なおかつ読者に伝わるという点において実在する。
その存在感、そして強さがいいと思う。
だからといって、まったく作品が崩壊していて読み物として読めないレベルではさすがになしだけれど。