メモメモ

下書き。

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MA的リアリズムを主なデータベースにした作品群のなかの特定の群について考えるとき、まずその群(仮にYとする)を特定しなくてはならない。
範囲の特定に関してはいくつかの考えがあるが、ある程度の広さと、そして排他性を持ったものを採用したい。
しかに特にMA的リアリズムをデータベースにする作品群は、後述する理由によりかなりの要素をはらんだものと、特定の要素にのみ特化したものに分かれる傾向にあるように思える。
前者の性質を持つ作品は、事後的に分類する、あるいは必ずしもYには入らないが、導入としてありえるという位置におくことはできるかもしれない。
Yは基本的にキャラクタの関係性という問題を主要な条件として成り立つと仮定する。
この関係性については詳細は省くが、なぜ関係性を主要条件にするかといえば、そもそも観察対象が二者以上の関係性によって成り立つものであるからだ。
例示するならば、友情をテーマとした作品には、通常(人間に限定しない)二者以上が(同時間帯に存在しなくても、もしくは暗示的ではあっても)登場する。
なぜならば、「友情」は二者以上の関係性からのみ成り立ちうるからだ。
ではこれはYに当てはまるのか。
それはYの定義ということを考えなくてはいけない。
あるいは「友情」に関しても、「友情」を厳密には定義しなくてはいけない。
例えば受け手によっては、「友情」として提示された関係性が「チームワーク」という別の言葉で置き換えられたり、あるいは「愛情」という関係性に読み替えられる可能性もある。
しかしここで細かくYの定義について考察することはできないし、そもそもYという群の範囲を考えるときに、その中でYの定義を考えてしまってはひどくねじれた構造を構築してしまう。
いや、最終的にはこの構造を説明しなくてはいけないのだが、そのための手順として、いまYの定義をこの構造の把握をまたずして行うことは不適切だ。
そこでひとまずこのYという関係性を主要な条件とするものの定義をすこしはなれ、MA的リアリズムをデータベースにした作品に、もうひとつRL的リアリズムをデータベースとした要素がかなりの確率で見られるということを指摘したい。
RL的リアリズムとは、RもしくはLのデータベースというよりも、ここではMA的リアリズムではないリアリズムとしておく。
(RNの歴史的なHFからLFへの流れを考えたときに、また、某書における作家Sに対する批判などを考えると、MA的リアリズムをデータベースにした作品のなかにはRL的リアリズムに傾斜し始めている傾向が一部見られるようであるということを述べておきたい。
これについて、MA的リアリズムの対概念として想定されるRL的リアリズムではなく、オリジナルのRL的リアリズム、つまりORLとする)
上記括弧内において、HFからLFへの以降が指摘されていると述べたが、これはYのみに当てはまる話では当然ない。
Y的(仮にここでは、二者以上の間にある感情Aあるいは強いT的感情があり、その関係性を主要なテーマとしていることを『Y的』とする。詳細な分類に関しては、ある程度の構造が見えた後に再度設定する)作品も、その他の作品にも、当然にMA的リアリズムそしてRL的リアリズムをデータベースとし、そこから引用された要素が使われている。
さて、ここで考えなくてはいけないのは、そもそもORからLが生まれ、そしてORおよびLからMA的なものが発生したという事実である(MA的リアリズムからORに影響があることもまた事実であるように思う)
MA的リアリズムのあらゆる要素の原泉を確認することは、かなりの困難がとどまるし、そもそもここで問題にしているのはYについてである。
そこで、Y的な要素の原泉について集中的に確認したい。
この問題についていくつかの先行研究を元にする。
ひとつは「①」であり、これはYに対するある種の「神性」を求める感情の原泉について、近代日本の文学の中で追求された神聖性を考察する試みである。
もうひとつは「②」であり、こちらはMA的リアリズムが生む感情がYに求めるモノについての考察である(あくまで作品論としてであり、コミュニケーションの問題は後述する)。
また、主に②に関連して、ポルノグラフィーについてもできれば考察したい(これにまつわる現実の問題に関しても後述)。
さて、ここまではMA的リアリズム、それに対抗するものとしてのRL的リアリズムについてどのようなアプローチをするかという提示であるが、さらに昨今のMA的リアリズムをデータベースとした作品に対するアプローチとして、また、そのORL的リアリズムおよびその要素の収集元として、現実と作品の関係性を考察する必要がある。
ORL的リアリズムについては、①をもとにした考察によってある程度クリアにすることができると考えられるが、②については作品の需要環境及び流通、そしてコンテンツとして消費されるものとしてだけではなくコミュニケーションのネタとして消費されること、そのコミュニケーションの場の問題を考察しなくてはいけない。
さらに、商業的な流通とは別のながれ、例えばDでありSである物についても、当然に考慮しなくてはいけない。
その中で送り手、あるいは標準的な読みからは見えない受け手の読みや、姿の見えない需要者、そして反発者のことを考えたい。
再度確認するならば、対象はMA的リアリズムの上に成立するYであるが、しかしそこにはRL的リアリズムが介入している。
そしてそれはYに特徴的な問題ではなく、全体的な傾向である。
また、MA的リアリズムはORLに依拠しており、LはRの影響によって成立している。
故にまずYを中心にORLについて考察(上記①に該当)し、ついでMA的リアリズムを再構築する(そして②的な考察をする)
また、作品は常にRに存在し、そして単に作品として存在するだけではなく、今日の発達したネットワーク環境でコミュニケーションのネタとして機能している。
また、ネタとして作品を称するだけでなく、ネットワークは作品そのものを生産し、あるいは作品ではないものを生産する。
そしてそれは非常にオープンな場につねにさらされる。
MA的リアリズムとRL的リアリズムそしてRもしくは現実(インターネット含)の三本を軸に、立体的にYを考察し、そこに何が描かれるのか、求められるのか、そしてそもそもYとは何かを考察したい。

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追記:

この点に関して、インターネット書店の隆盛による、作品との出会い可能性の高まりと、入手コスト(経済的・心理的)の削減、また、インターネットに普及・マスでのコミュニケーション化による作品との出会い可能性を指摘したい。
RN的に言えば、レーベルの増加と作品の増加は一単位あたりの消費量の減少に繋がり兼ねず、ゆえにとっかかりとしての要素を多分に持たせた作品と、特定の購入者層が常に想定出来る一要素に集中された作品に分岐されうることは、いくつかの場ですでに言及されている。