「ドブス」騒動について思うこと

首都大生の「ドブス写真集」動画が騒動に 大学は事実把握、「大変遺憾」 - ITmedia News 首都大生の「ドブス写真集」動画が騒動に 大学は事実把握、「大変遺憾」 - ITmedia News
この件の「ドブス」という言葉を見たときに二つ頭に浮かんだことがあって、ひとつは「伊集院光深夜の馬鹿力」というラジオ番組の「デブとドブスがコンブリオ」というコーナー、もうひとつが「めちゃイケ」の「ブサイクコロシアム」だった。
どちらも容姿(コンブリオの方は性格も含めてだけど)が「美しくない」人をネタにしたコーナーなんだけど、媒体の違いもあるけど仕組みというか構図が違う。
前者において、「ドブス」をネタにするのは、番組内で常に自分に対して自虐的なこと(痴豚、豚顔面など)を言う伊集院光氏だ。
また、ラジオ番組においてリスナーは基本的にパーソナリティの側に立って聞いていることが多いように思う。
(デブとドブスがコンブリオは、TBSラジオの「OTTAVA con brio」という番組のパロディで、眠くなるような音楽にあわせて、「デブ」「ドブス」の面白い光景を想像するというコーナー)
つまり、『「ブサイクな」僕たちが、「ドブス」を面白がる』という(そして、そもそも自分たちが馬鹿にされているということも踏まえた上で)アイロニカルな構図がある。
徹底した自虐の結果、開き直って「デブ」と「ドブス」を面白がるという場と考えることができる。
つまり劣等感の裏返しであり、「俺たちはブサイクだ」という前提が確かに共有されている。
一方で、後者(ブサイクコロシアム)は、「きれいな」芸能人と「ぶさいく」な芸人の対峙という構図だ。
視聴者は「きれいな」芸能人あるいはカメラの目線で番組を見るものと思われる。
まず登場するのは「きれない」芸能人で、彼女がスタジアムに入るところから始まるからだ。
もし自虐として始めるのであれば、スタジアムにいる「ぶさいく」側から写されるべきだろう。
おきれいな芸能人目線から、自虐する「ぶさいく」とされる芸人を笑うという構図に見える。
そして、「ドブスを守る会」のスタンスは、明らかにこの構図を受け継いでいるように思えて不愉快だ。
べつに彼らが「ブサイクコロシアム」に影響を受けたかどうかはしらないし、これを例にあげてバラエティー番組叩きをすることが目的ではないし、この企画自体がいいかわるいかについては個人的にはべつにどちらでもないと思っている。
「ぶさいく」とされる芸人の方々は、それで仕事をしている面もあるし、善悪の判断は視聴率やその他ですればいいし、「倫理」を持ち出して叩くことはできない。
それに、仮に影響があったとして、問題なのはそれに影響されて、ネタをネタとして見ることができない残念な人がいるということであり、なぜそうなってしまったのかということだと思う。
前者のコーナーに対する見方も、僕がラジオ好きだということを考慮すれば、ひいき目であって、社会的に擁護できるのかどうかはわからない。
自分が開き直っているから、他者をネタにしてもいいのかといわれれば、それはまた別の問題。
しかし、前者において笑いの対象に成っているのがあくまでいそうな「ドブス」であるのに対して、後者では実在する「ぶさいく(とされる人)」であり、そして今回の騒動で対象になったのは実在のしかも「ドブス」と勝手にされそのことでなんの利益も得ることがない人たちだ。
人を傷つけないという最低限のこと(ルールとか倫理とかそういうことを使わずにいえば、社会的な制裁の発動可能性としての暗黙の了解)を見抜けなかったのは、非常に残念としかいいようがない。
容姿のよしあしをネタにすること自体に対する倫理的な非難はしないけど、結果としてこういう風に社会的な制裁をうけるということを通してそれが悪とされるという当たり前のことに気がつけなかった名前がさらされている複数名の人たちは非常にかわいそうだ。

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問題行動と見られる行為に対し、ネットで個人情報が過度に(法令に反しない・あるいは罰則を受けない範囲に)ばらまかれ、それが制裁として効力を持つことを、個人的には肯定的に見ている。
もちろんケースにもよるのだけれど、今回は彼らに一切同情する余地がないように思えるので、被害女性達の情報が広まらない形で、適度にこの騒動が広まることを個人的には期待しています。

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注:番組とコーナーを例示したのは、それに対する非難ではなくて、こういう残念なことに繋がる可能性があるんだね、残念だねということを思った、というだけのことです。
別に非難する意図はありません、念のため