「私」と「わたし」とわたしと私と…

今日、宇野重規さんの「<私>時代のデモクラシー」という本を読んだ。
感想は後日。
ところで
私たち→私、社会から個人への流れはもはや自明だけれど、しかし「私」を<私たち>はきちんとつかめているのだろうかというのが、最近の僕の関心だったりする。
べつに「私」が何者であるかなんて、考えなくても普通にくらせるけど、結局何かのタイミングで見つめ直さなくてはいけない。
一番わかり易いのが就職や進学の面接で、あるいは親しい人の病気や死で。
就職は自己実現らしい。
自己PRとかを考えるのに、僕たちは自分の長所や短所を書き連ねたり、しゃべったりする。
もちろん、それはお芝居で、しかし表現された(たとえ自分しか見なくても)自分は、たしかに「私」のように思える。
流石に全くゼロからキャラクタを組み立てられはしない人の方が多いだろうし、そんな面倒くさいことをするメリットとコストのバランスを考えればたぶんしない。
別に面接などに限らず他者にとっての「私」と自分自身にとっての「私」は違う。
しかし『私にとっての「私」』と言ったときに、カギカッコのない私と「私」の関係性はいったい何者なのか。
少なくともイコールではない。
カギカッコのない私とは、純粋な<私>であり、しかし「私」でしかない。
『純粋な私』を求めた時に、もとめるという行為が、仮にあるとして『純粋な<私>』に影響を与える。
観察することで影響を与えてしまえば、観察されたものは元々の観察対象ではない。
それは『純粋な「私」』でしかない。
そもそも私とは何かに対する反応であって、『純粋な私』はその意味では無ではないのか。
知覚心理学
例えば表現活動にしても、内的な感情は例えどのような手段を使っても、全くそのとおりに表現されることはないだろうし、そもそも感情自体が常に一定であるという保証はない。
それに、見る側が正確にその感情を把握することもおそらく不可能だろう。
文章にしても、校正されたものはきれいだけれども、そういうパッケージとして見られる。
基本的な漢字の書き間違いや送り仮名の間違い、あるいはミステリならばトリックの矛盾はともかく、文章的に日本語的に正しく訂正された文書は、「正しく訂正された文章」としてパッケージングされたものになる。
問題はむしろ訂正された破片であり、あるいは上書きされた破片であって、そちらにこそ「純粋な私」性が宿っていたように思うのだけど、しかしそれは事後的な感傷的なものなのかもしれない。
反射や勢いだけが私的であると言い切るような理屈も理論ももっていないけど、純粋な私追求っていうのは最終的にそういうどうしようもなく認知できないような場所に落ち着かざるを得ない気がする。
もしくはキャラクタの重なりあう部分にある情報をインプットして状況に合わせてアウトプットするようなシステムか。
キャラクタを通して得た情報も、さらにもう一度それを通して社会に出るアウトプットされた情報も、システムがアウトプットした情報がなにであったのかを、キャラクタの一人でしかない「私」は知る余地がない。

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自己分析的なことで導き出されるのは、これまでの経験から考えうる自己なのかなーとか思ったり。
あと、忘れ去られる私断片への思いと日々忘れられていく膨大な短期的に無意味なカット達への焦燥とか。
メモ。