ドキュメント 女子割礼

先日朝日新聞に掲載されていた女性性器切除の記事に関して書いた記事で紹介した本を読んだのでその感想。
著者はフォトジャーナリストの内海夏子さん、集英社新書
まずとにかく痛い。
女性器切除の詳細な内容が最初のほうで描かれているが、なんどか中断しないと読めなかった。
僕は性的には単なる男性でしか無いので、女子割礼の痛さについて実感はない。
例えばクリトリスを切除するタイプの割礼に対して、その痛さを想像することはできない。
ペニス切除を想像しても、リアルじゃない。
イメージ的にはペニスではなく睾丸の切除というような感じを想定した。
WHOの分類は

タイプ1:クリトリデクトミー
クリトリスの一部または全部の切除
タイプ2:エクシジョン
クリトリス切除と小陰唇の一部または全部の切除
タイプ3:陰部封鎖
・外性器の一部または全部の切除および膣の入口の縫合による膣口の狭小化または閉鎖
タイプ4:その他、タイプ1〜3に属さないもの

(P36より引用)
割礼という言葉に関しては、国連などでは女性器切除という名称が併記され、それは割礼/女性器切除を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかのそれぞれの立場に配慮されているらしい。
著者の立場は比較的中立的であるように思える。
割礼を推奨する立場の人々を糾弾するようなことはせず、その来歴や社会的な問題、あるいは政治的な争いという非文化的(大きく捉えれば文化だが)な状況も冷静に書かれている。
大声での改善ではなく、コミュニティレベルでの改善、しかも外部性に配慮した方法を肯定的に紹介している(ように見える)。
ただ、やはり文化の問題は、結局どういうやり方であろうとそれは中立的ではありえない。
それはたぶん著者も自覚していると思う。
だからこその冷静な、中立的な記述であり、しかしそこに是正するべきという姿勢が見える。
僕はそれを非難するつもりも無いし、ある意味当然だと思う。
誤解に基づいた部分も多く、意義や来歴を再考することで、改善されている例も紹介されている。
しかしそれが正しいということを言うことはできないのではないか。
文化相対主義が果たしてどこまで妥当なのか、つまり相対主義は相対的であることに絶対的にならざるを得ない。
文化相対主義的な目線というよりも、もはや判断しようがない、という絶望感をもって、僕は女子割礼という「文化」の「改善」を肯定することにためらいを覚える。
被害者がいる、だから被害者がでないようにしたい、というのは、その絶望の中でもあえて選ぶ立場だけど、でもその被害者の時間的な位置、つまり切除を受けた女性が子供に切除を受けさせるという流れは、どこで彼女たちを被害者にし、そして「加害者」にしてしまうのか。
どこかで判断をしなくては、生きていくことはできないわけで、僕は判断をした人たちを「独善的だ」と非難する気もないし、する資格もない。
多くの人はある問題に積極的にコミットしていることに対して、常にこの問題と向き合っているはずだし、あえて選んでいるという事もわかっているつもりだ。
心情的にこの問題をどうにかしたい、とは思うけど、あるいはなにか自分でできる範囲のこと、たとえば募金したりこの事をこのブログに書くこと自体ももしかすると少しはその一助になりえるかもしれないしからそういうことをするけど。
あとで「リアルのゆくえ」という評論家の大塚英志氏と東浩紀氏の対談集について書こうと思っていて、その中でも触れようと思っていたんだけど、結局多様性を確保していくにはある種の不自然さと言うか暴力的な部分がないと成立しないんじゃないか。
つまり相対的な空間で絶対的な位置を見出すには、なにか比較するものが、例えば現代日本でいうと異常者のような存在が、結果として社会の正しさの位置を規定している。
しかしそれが鋭くなっていき、そして空気を読み合いすぎると生きづらくなるわけで、空気を読まずに発言する人が必要なんだと思う。
ただ、じゃあそのための犠牲として、つまり世界の正常さと言うか正しさの確保のために少女たちが犠牲になっていいのか、と言われればそれはどうにも反論がしづらい。
僕がたまたま犠牲者、犠牲者になりうる立場ではないからこういう事を平然と言ってしまえるわけで、それこそ自分勝手な言動なのだ。
こういう問題をどう引き受けていくのかを考えないといけない

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