控訴取り下げ
asahi.com(朝日新聞社):土浦殺傷事件の金川真大被告、死刑確定へ 控訴取り下げ - 社会
先日ちろっと書いた殺傷事件のニュース。
控訴を取り下げて死刑が確定したらしい。
言動一致。
以下少々不謹慎の可能性有り。
正直、僕は別に犯人が誰だろうが被害者が誰だろうが、それ自体はなんの興味もない。
あくまでも発言とか行動とかそういうものだけ。
結局理由は『自殺はいやだから死刑になりたい』なのか。
目立ちたいとかそういう理由はあったんだろうか。
あったならたぶん無駄だなとおもう。
何が言いたいかというと、犯罪による承認の獲得は無理なんじゃないかと。
彼がそれを望んでいたのかどうかは知らないけど。
というよりも、自分という個体そのものの承認を求めることは無理じゃないだろうか。
誰かにとって誰かは交換可能な存在でしかないように思える。
それが現実的にはないから必要とされるのだけれど、例えば恋人が要求するのと同じレベルのことを提供できる存在がいれば、それは交換可能じゃないか?
あくまで承認されるのは、相手の中の自分であって、自分のなかの自分ではない。
まったく同一でなくても、例えばキーワード的にでも羅列される条件を満たせれば交換できる。
現実にはそんなことは出来ないから、誰かにとっての誰かはその人だけになる。
でもそう考えると承認は部分的で、部分的な承認をされている自分が無数にあちこちに拡散しているということになる。
存在を知られているだけで満足ならそれでいいけど、それで満足できないからブログを書いたりTwitterでつぶやいたりしてるんじゃないか。
拡散した自分への誰かからの承認の回収と、新しい部分の承認を求める行動の繰り返しが、自分語り的な日記さらしのブログの正体だと思う。
でも、ブログの自分と自分だと思っている自分は乖離するし、訪問者の数だけ自分が拡散して、さらに否定される可能性も出てくる。
自分を含めてブログを見ている人に期待される無数の自分を演じるのは、気がついてしまったときに苦痛になるし、部分的な承認の回収は結局集合的にすることは出来ない。
それは現実も一緒だけど。
だからむしろ知られることは苦痛じゃないのか? と思う。
目立ちたいという理由の犯罪をする人の話を聞くと。
表面的な承認を獲得してそれで維持するか、極端に引きこもるかが正解じゃないのか?