誰が子どもを育てるの

asahi.com(朝日新聞社):大阪2児遺体事件 虐待通報、出動したが実態つかめず - 社会 asahi.com(朝日新聞社):大阪2児遺体事件 虐待通報、出動したが実態つかめず - 社会
百歳を超えた(とされていた)お年寄りがミイラ化して見つかったり、幼い子どもがネグレクトで亡くなったり。
なんだか嫌なニュースが続いてますね。
ネットでニュース拾い読みしたり、ニュース番組をみたい程度なので、あまり詳しいことをしらないですが、小さい子が放置されて亡くなるというのは、なんともやりきれません。
かと言って、児童相談所が最大限できることをしていたのであればそれを責める気にもなれず、母親も事情がよくわからないし、わかったところで行動を肯定する気はもちろんないけれども、しかし彼女が非難されて終わる問題でもないわけで。
周辺の方は通報とかしていたみたいだし、今の時代に都市で、大して知らない人の事情に安易に、それこそ余程のことがない限り、関わるなんてことは難しいでしょう。
逮捕された下村早苗氏にどういう事情があったにせよ、彼女に過剰な物語を見るのはあまり意味が無いように思います。
いや、意味がないというよりも、物語られ方自体がおよそ予想の範囲内に収まるであろうことを考えると、多数がそれをやる必要はなく、確認的にその作業をやればそれで十分なのではないか。
むしろ考えるべきは、「子ども」という存在をどう考えるかということにあるように思います。
と言っても、すでにこの件に限らず児童虐待はすでに社会問題化していますし、子どもをどう育てて行くかという議論は、様々な場所でいろいろな角度から研究されています。
例えばここ数年よく耳にする地域コミュニティの復建などは、地域社会で子どもを育てていくということもひとつのテーマ。
金銭的な問題だけでなく、広く子どもを育てられる環境を整えることで、世代を再生産していくというのは、少子化対策としての側面もあります。
しかし一方で、そうした対策を支持する場合には、誰がコストを負担するのか、人工流動性の高い場所でのコミュニティはどうするのかや、プライバシーの問題、そしてコミュニティの寛容性をどうするのかなどは、身近な問題として一人ひとりが考えなくてはいけない。
端的に言えば、フリーライダーをどうするのかや、自分はそれに義務感を持って自己犠牲を払ってでも参加するのか、もしコミュニティと距離を置きたい家庭がある場合どのように接するのか。
あるいは、コミュニティが結束するために発生する外側、例えば安全のために自警団的な組織が結成された際に、彼らの仮想的となる者、小中学生の安全を考えるときに想定され生み出される不審者という存在。
地域コミュニティ再興は、一体感や繋がりを維持するための手段として有効であり、参加者にはそれなりの達成感や共感が生まれる一方で、その中でのルールや正義が暴走しかねない、つまり内と外を作ってしまいかねない危険性をどう考えるのか。
個人的に、はっきり言って地域社会のコミュニティに属するのなんか嫌だし、プライベートな時間を裂いて、コミュニティの為に活動し、しかもその活動から連帯感を得たいとも、僕がそれを得れるとも思えていない。
「善」であるように見えることほどやっかいで、自警団的な活動や子どもの安全を守る活動なんて言葉は否定しがたいけど、しかし「善」なのだから当然のような傲慢さが生まれると思う。
しかしそれを指摘することは協調性のなさみたいなことにされて、あたかも「悪」であるというレッテルを貼られるおそれがある。
低下している犯罪率にもかかわらず、治安悪化を恐れるような風潮では、「そういう考えもありだな」というような寛容性は期待できない。
必然的に、手のあいた時間の多くなる人たちが主導権を握るであろうコミュニティに、果たしてそれ自体を必要とする人たちは積極的に参加するのか、したいと思えるのか。
また、誰が信用できて誰が信用できないのか、なにかあったときは誰が保証するのか。
適当にしていては問題が起こったときに困るし、かと言って細かく規則を決めたときに、それは果たしてボランティア的な活動にみあうものになるのか。
僕は社会で子どもを育てるべきだと思うけれど、それはきちんと制度化した上でやらないとまずいのではないかと思う。
早急にすべきは、今の状態での児童虐待を防ぐための仕組みだけれど、長期的に考えたときに、家庭単位からはみ出した自由度の高い子育て制度が必要なんじゃないか。
もちろん、ボランティア的な活動を否定する気もないし、そんな資格もないし、それはそれで素晴らしいと思ってるけど、独善的なものがもし何かを圧迫するのなら、そこに客観性を持たせる必要が在るんじゃないかということです。
報酬なりなんなり。
感覚的にだけれど、思想や子ども自体の意味が変わっているのに、家族や父親・母親という枠組みに意識的になり無意識的になりとらわれたままになっている気がする。
必要なのはそれ自体じゃなくて、役割なんじゃないの。
育てられないなら生むなは正論だけど、二十歳そこそこで全部わかるわけじゃないでしょ。
擁護する気はないけど、しかし彼女を非難することにはやっぱりあまり意味が無いと思う。
そういう言説自体に、価値の再確認の効果はあっても、非難それ自体に問題の解決の糸口はないでしょうと。
ただまあ、本当に亡くなった子どもたちがかわいそうでやりきれない。

                                      • -

追記1
asahi.com(朝日新聞社):ドアに粘着テープ跡、室内に閉じ込め図る?大阪2児遺体 - 社会 asahi.com(朝日新聞社):ドアに粘着テープ跡、室内に閉じ込め図る?大阪2児遺体 - 社会
asahi.com(朝日新聞社):ゴミまみれ、ドア固定され水も飲めず… 大阪2児遺棄 - 社会 asahi.com(朝日新聞社):ゴミまみれ、ドア固定され水も飲めず… 大阪2児遺棄 - 社会
asahi.com(朝日新聞社):育児の関心、急になくす? サイトの記述一変 2児遺棄 - 社会 asahi.com(朝日新聞社):育児の関心、急になくす? サイトの記述一変 2児遺棄 - 社会

                                      • -

追記2
固有名の個人としての私がなにか立場上特別なことができるということはありません。
社会的な地位も、権力もなく、繋がりもないので。
できるとすれば身近な範囲で話題にしたり、こうやってブログに書いてみたり、地域の活動に参加したり、行政や選挙区選出の議員の方に働きかけたり、NPO法人などの活動に協力するというようなことでしょう。
前二者はともかくとして、後者三者に関しては個人では難しいものがあります。
特に最後の二つは、それなりに勉強しなくては意味が無いでしょう。
金銭的な協力ならば可能でしょうが。
むしろできる/できないの問題よりも、する/しないが問題なのではないかと思います。
もともと書いた記事では否定的に(ただし否定はしていません、と強調しておきます)書いたものの、地域でこういった事件が起こることを防止するための活動をすることになれば、参加資格が在るなら参加するし、何か訴える場があるならそれもするつもりです。
(ただそれは「善いことだから」と個人的に思うということと、あとは「自己満足」あるいは「言い訳として」という側面があり、それはあくまで自覚したまま(ただし表明はしませんが)になるでしょう)
思想・良心は、社会の中で生活する個人が全くそのとおりに押し通すことは困難ですし、個人が単一のそれらをたったひとつ持っているわけではなく、常に複数のパーソナリティがあります。
僕は『殺人は「悪」だと思いますが』、人を殺すことを「悪」だと断言できませんし、これはは矛盾していないと思っています。
それと、「善意」に対して批判的なことを書いたのは、高所から見下ろすつもりではなく、むしろ「善意」側からもれるおそれがある少数派になる可能性がある立場として、危機感があるということを表明する極めて個人的な表現です。
いずれにせよ、(私的な事情による制限もあり)今出来ることはあまりないわけですが、かといって何もしなくていいとも思っていません。